花ある風景(645)
並木 徹
オペラ「病床に六尺に生きて」を見る
正岡子規生誕150年記念・オペラ「病床六尺に生きる」を友人で俳人の荒木盛雄君と写真家の霜田昭治君の3人で見る(9月18日・東京・台東区生涯学習センター)。構成は3幕12場。興味深く、今更のように子規の俳句の奥深さを知った。
「五七五オペラの曲に天高し」(荒木盛雄)
「俳句もてオペラは未踏さやけしや」(荒木盛雄) これまで俳人をテーマとしたお芝居は井上ひさしの「小林一茶」と「芭蕉通夜船」を見ている。井上ひさしは俳句を勉強するのに正岡子規から始めている。子規は「写生」を強調、「理屈は文学に非ず」と言い、天保以降明治初めの俳諧が堕落しているのを嘆いたという。子規は明治俳句の新派を代表する。俳句を始めたのは明治18年。俳句は子規が命名したもので明治以降の呼び名である。それまでは「俳諧」「発句」といわれた。子規の俳句で最初に活字になったのは「虫の音を踏み分け行くや野の小道」である(明治20年8月・「真砂の志良辺」)。
オペラの幕開け前に台本・作曲・演出・指揮の仙道作三がみずから解説する。何故、解説でなく出演者20人による合唱「俳句賛歌・子規賛歌」からはじめなかったのか惜しまれる。5・7・5の俳句は世界で最も短い短詩である。世界に誇るべき文化である。子規の名著「俳諧大要」(1899年刊)には「俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むるなかれ、拙を蔽ふなかれ、他人に恥がかしがるなかれ」とある。合唱とともに近代俳句の旗手・正岡子規を演ずる岡昭宏(バリトン)、子規の親友夏目漱石(志田雄啓・テノール)にたからかに歌わせたらオープニングは一段と盛りあがったはず。第一幕「自己形成」第1場「墓碑銘」と続けば、観客は身を乗り出して聞き入ったに違いない。
墓は東京田端の大竜寺にある。「子規居士之墓」と刻まれる。自ら書いた墓誌名がある。死の前日の絶句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」「をととひのへちまの水もとらざりき」(第3幕4場フィナーレで合唱によって歌われる)。第1場では女子学生Ⅰ(愛宕結衣)、同じく2(門脇麻里子)、同じく3(中村友里香・いずれもソプラノ)は歌う。「春風やまりを投げたき草の原」「まり投げて見たき広場や春の草」「夏草やベースボールの人遠し」。子規の面倒を見た俳人・寒川鼠骨(上田誠司・バリトン)が時々舞台に出てきて解説する。「ベースボール」を「野球」と訳したのは一高で子規の3年後輩の中馬庚。子規は野球好きで「日本」新聞に野球随筆を寄せている。
第2場「上根岸町鶯横丁・子規庵」(子規25歳、母)。第3場「上野紀行」(子規27歳)。母・八重(田中樹里・ソプラノ)と妹・律(中桐かなえ・ソプラノ)を上根岸(陸羯南宅西隣)に呼び寄せるのは明治25年11月である。10月には大学を退学。12月に陸羯南が経営する日本新聞に入社。月給15円。『俳句欄』を設ける。『獺祭書屋俳話』を「日本」に発表(明治25年6月)、「芭蕉雑談」を発表(明治26年11月)して、旧派俳諧排撃ののろしを上げる。明治27年2月に上根岸82番地へ転居する(陸羯南東隣)。上野界隈の句が歌われる、ソプラノの声が心に響く。「車道狭く埃捲くなり夏柳」このころは馬車の時代。花の季節、祝祭日は往来が激しかった。「大仏のうしろに高し夏木立」上野公園に大仏様があった。戦時中に取り壊されていまはない。精養軒近くの小高い丘にその痕跡が残っている。「昼中の堂静かなり蓮の花」。
第4場「従軍記者と大喀血」(28歳)。明治28年3月日清戦争に従軍記者として派遣される。4月10日宇品を出港、金州・旅順を廻る。金州で森鴎外と会う。森鴎外は陸軍軍医監であった。ときに森鴎外34歳。鴎外の小説「舞姫」をめぐって褒める漱石と反論する子規が論争したことがある。鴎外との間でどんな会話が交わされたか知りたい気もする。アリアは「人も無し木陰の椅子の散松葉」「涼しさや松の落葉の欄による」「贈るべき扇も持たずうき別れ」と詠う。
5月17日帰国途上の船中で喀血。23日県立神戸病院に入院、8月退院して松山に戻る。翌日、漱石が下宿する市内2番丁の豪商・米九の番頭上野氏「愚陀仏庵」に52日間世話になる。愚陀仏は漱石の俳号である。10月31日には東京へ戻る。東京までの旅費は漱石から10円借りる。漱石の月給は80円であった。
第5場「伊予松山‣愚陀仏庵」(28歳)。アリア「桔梗生けてしばらく仮の書斎哉」「足なへの病いゆ(癒)とふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば」「酒あり飯あり十有一人秋の暮れ」「御立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」(漱石)「送られて一人行くなり秋の風」ここで子規から俳句を学ぶ者が毎日押しかけて漱石も大いに迷惑したがやむを得ず漱石も俳句を作る。
第6場「道灌山の決裂」(29歳)明治28年12月9日、道灌山で子規は高浜虚子(近藤圭・バリトン)に文学上の後継者になるよう要請するが断られる。舞台で繰り広げられるレチタティーヴォ(叙唱)はよくわからなかったが二人の間にただよう険しさだけはわかった。子規は調和的で自らを育て上げてゆく虚子を信頼して後事を託そうと思いつつも自分の納得する形で主体的に事を運びたいという虚子の信念が反発、はげしいやりとりになった。
松山中学の先生の漱石は明治28年12月、休暇になると上京、お見合いをする。大晦日には子規を訪ねる。翌年の1月3日子規庵での句会に出席する。虚子も河東碧悟桐も森鴎外も顔を出す。
「漱石が来て虚子が来て大三十日」
「一幕で栗食む子規のオペラ劇」荒木盛雄
第2幕第1場「俳句の革新」(30歳)。出演者全員20名が「ああ、根岸」を合唱する。第2場「短歌の革新」(31歳)。子規庵はもともと旧加賀藩前田家の下屋敷野侍長屋で二軒続きの一軒であった。四季花鳥風月に恵まれる。子規は詠む。「紅梅に琴の音きほふ根岸哉」「薄緑お行の松は霞けり」「松一本根岸の秋の姿かな」「新阪を下りて根岸の柳かな」紅、緑、青と色を競えば鳥も負けていない。「雀より鶯多き根岸かな」「初音聞け春の根岸の枕売」「鶯も老いてねぎしのまつりかな」
「幾たびも根岸の鶯啼きにけり」荒木盛雄
時は穏やかに流れてゆく。明治29年3月カリエスと診断され手術を受けても子規は病臥しながら精力的に創作活動を続ける。此処文学サロンは新時代の著名人を輩出した。歌人の伊藤左千夫。長塚節、香取秀貞、画家の浅井忠、中村不折等々・・・河東碧悟桐、虚子は言うにも及ばない。
伊藤左千夫(志田雄司・テノール)「牛飼が歌をよむ時に世の中に新しき歌大いにおこる」
長塚節(小山晃平・バリトン)「歌人の竹の里人おとなへばまひの牀に絵をかきてあり」
第3幕「病床六尺に生きて」第1場「墨汁一滴」(33歳)。「墨汁一滴」は「日本」に1月26日から7月2日まで連載される。その1(倫敦の漱石)。漱石は明治33年9月8日横浜を出港ロンドン留学に向こう。翌年の5,6月「倫敦消息」が子規の主宰する「ホトギス」に掲載される。漱石(テノール)「柊を幸多かれと飾りけり」漱石「屠蘇なくて酔はざる春や覚束な」漱石「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」
子規(バリトン)「筆禿びて返り咲くべき花もなし」その2「山と写生と配合」伊藤左千夫(テノール)「三穂に渡る舟の日傘やあげ雲雀」その3「閻魔さま」(オペラコミック)。閻魔大王(野間愛・メゾソプラノ)、赤鬼(小高深雪・ソプラノ)、青鬼(本多唯那・ソプラノ)ら3人によるコミックが演ぜられる。私はこのコミックを子規が見た夢とみた。自分が志ざす5・7・5の俳句の革新運動はいまだ道半ば。病魔に襲われた命が尽きようとしている。閻魔大王の様に病魔の赤鬼青鬼を何とも抑えたいという思いの表れだと思う。陸羯南の4女ともえ、5女しまと付近の子供たちが歌う童謡に慰められる姿が痛々しかった。
第2場「仰臥漫録」(34歳)。「仰臥漫録」を書き始めたのは明治34年9月2日からである。「糸瓜ぶらり夕顔だらり秋の風」「芙蓉よりも朝顔よりも美しく」「秋の蚊のよろよろと来て人を指す」「秋の蠅蠅たたき皆破れたり」「鶏頭や糸瓜や庵は貧ならず」
苦痛に耐えきれずに自殺を図ったのは明治34年11月6日、母と妹の留守中の出来事であった。
「床に臥す不治の病や暑し暑し」荒木盛雄
第3場「病床六尺」病床6尺の天地になおも俳句の世界を求めた子規を語るに「いくたびも雪の深さを尋ねけり」は欠かせない。子規は柿が大好きであった.「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は明治28年10月松山から東京の帰途、奈良に遊んだ時の句である。子規は病床6尺に相応しい句をいくつか詠む。「障子明けよ上野の雪を一目みん」
第4場「絶筆3句」。虚子(アリア)「子規逝くや十七日の月明に」
「合唱の絶筆三句糸瓜落つ」荒木盛雄
フィナーレ。合唱「絶筆3句」と「漱石の追悼句」。「筒袖や秋の棺にしたがはず」「手向くべき線香もなく暮れの秋」(いずれも漱石)「昨日生れ明日去ぬその日つづれさせ」(9月17日に生れ、9月19日に亡くなった)。荒木盛雄
それにしてもオペラ歌手がたからかに歌う俳句(アリア)はまことに心地よく響いた。
最後に霜田昭治君の感想を紹介する。
「女っ気の少ない子規と五・七・五の短詩をオペラにするというユニークな企画に惹かれて観劇した。オペラといえば舞台一杯に演じる美男美女の華麗な演技や群舞が頭に浮かびが、演技の代わりにナレーションが舞台回しの重要な役割を果たしていた。五・七・五の短詩をオペラ歌手が歌うとどうなるかーーー素晴らしいですね。唯、短いのが物足りなかった。二度歌うとかハモるなどして欲しかった。
第三場『病牀六尺』は舞台が病床なので役者の動きが無くても余り気にならず堪能できた。終わって目頭が熱くなった。それにしても子規役の歌手があんな姿勢でよくも歌えたなと感心した。男役者達とのバランス上、母親と妹役が多少の演技を交えて歌う場面がもっとあればよかったと思う」