銀座一丁目新聞

追悼録(645)

山本祐司君のお別れ会

毎日新聞社会部で一緒に仕事をした山本祐司君のお別れ会が開かれた(9月15日・東京竹橋・毎日ホール・7月22日死去・享年81歳)。呼びかけ人は元読売新聞社会部長・瀧鼻卓雄さんら外部の人が4人、毎日新聞は現職の社会部長磯崎由美さん、代表取締役会長朝比奈豊さんら3人であった。社内外の友人120人が集まった。朝比奈会長は山本君のロッキード事件の活躍を称えながら新宿の深夜のスナックで「社会部は切り取り自由なんだ」と山本君が言ったという昔話をしながら在りし日の山本君を偲んだ。読売新聞の瀧鼻さんは裁判所記者クラブで山本君と一緒であった。山本君が「最高裁物語」(講談社)で1995年の春、「日本記者クラブ賞」を受賞した時、元最高裁判所長官・矢口洪一さんと一緒にパーティで述べる祝辞を考えたというエピソードを披露する。献杯の音頭は私がとらされた。その前に少し挨拶をした。ロッキード事件が起きて私が社会部長になった際、山本君は裁判所のキャップであった。ロッキード事件での山本君の活躍は取り上げるまでもないが、立派だと思うには脳溢血、脳梗塞に倒れた後も児童文学を志して「ルパン文芸」を発刊、体の不自由な人々と共に小説を書き続けたことだと思う。なかなかできることではない。彼は昭和36年の入社である。この年に毎日新聞に入った連中には逸材が少なくない。その理由は前年の6月15日に起きた安保反対のデモ事件である。東大生樺美智子さんが死んだデモである。6月16日朝の毎日新聞の紙面は朝日・読売と違って異彩を放っていた。それはなぜかわが社は感情的な部分を削って起こった事実だけを報道したのに他社は編集局の幹部が原稿をチェックしたからである。当日のデモの模様は現場にいたものにはどの新聞が事実を書きどの新聞が事実を曲げたかよくわかったはずである。毎日の紙面に読者も販売店も感謝と激励の電話が寄せられた。しかし当時の社会部長は社長や編集局長から叱責を食った。社会部長は杉浦克己さん、当番デスクは三木正さんであった。この紙面を見て有為の人材が毎日新聞に入って来た。山本君はその一人であった。新聞を支えるのはまさに真実を追求する記者です。新聞部数がデジタル文化によって減り続けるうち新聞の生きる道が人材にあることを歴史が示している。

当日出席者の「一言集」が配られた。これが非常に面白い。「山本さんは学生の頃ほのぼのとした作風にひかれ、漫画家・馬場のぼるさんに弟子入りすることを志し馬場画伯のゴミ箱に描き損じの画稿をあさるために日毎通ったと話したことがある」(愛馬健)「祖父は連合艦隊『赤城』(?)の艦長、父は満鉄調査部。長い間所在不明で昭和39年の東京オリンッピクの際、突然オリンッピク役員として取材中の山本さんの前に現れた。謹厳実直な祖父と自由奔放な父、三代目にして悠揚。山本祐司。お世話になりました」(石黒克己)注・山本君の著書「毎日新聞社会部」にも祖父は海兵出身(歴代赤城艦長の中にはその名はなかった)。父は東大法学部卒で語学に堪能であったと記されている。『「聞こえぬ声」を聞く。彼は「物言わぬ生き物」に執着しその声を聞き出そうとしたのである。彼らしい最初の原稿は昭和38年12月12日付毎日新聞朝刊「ハトの自殺」である。以下略」(今吉賢一郎)。「ピータンにあこがれ、大人になりたくない社会部記者を演じ切り、やりたいことをやりたいように仕立てて見せました。いい人生でした。たくまずして先輩を引き込み、同輩を奮い立たせ、後輩を大きくしてピーターパンの系譜をつなぎました。そして最後に亭主になりたくないピーターパンが女房にありがとうと云えたのは快哉でした。山本祐司、ありがとう」(大住広人)。

夫人久子さんが謝辞を述べる。病に倒れ車いすの生活を余儀なくされた後も好きな児童文学の道を突き進む。30余年それを支えたのは久子夫人であった。会場から盛んな拍手が送られる。この後、林克行・元日本評論社社長、早稲田中高大学同窓生・板倉重徳さん、中嶋義臣・関電工顧問、社内友人代表.森浩一元社会部長らの話があって会が大きく盛り上がった。

(市ヶ谷 一郎)