銀座一丁目新聞

安全地帯(549)

信濃 太郎

権現山物語

閑題休題―敗戦で軍人の道を閉ざされた私たちはそれぞれの道を選ぶ。進学・就職。戦後は人生の余白と捉え士官候補生の矜持を忘れず懸命に生きた。今、90歳を過ぎて人生を楽しんでいる。船舶兵の荒木盛雄君は戦後東北大学医学部に進学、医者の道に進んだ。今なお働いている。子供と見れば声をかける優しいお医者さんである。このほど「奄美大島旅行記」を書いてくれた。

奄美大島旅行記

六月二十九日(木)―七月一日(土)

長年ミズホさん(夫人)の宿願だった、田中一村さんの美術館を訪れるための奄美大島旅行に参加することが出来た。参加者は八名、四組のこじんまりしたツアーでした。コースの名前は、孤高の画家が描いた自然をめぐる「金作原原生林と田中一村記念美術館、五感で感じる奄美大島3日間」。

●六月二十九日(木)第一日目 晴
成城学園発九時半、新宿バスターミナル発十時十分。羽田空港着十時四十分。昼食にサンドイッチとビーフカレーを食べ、十一時半集合。日本航空六五九便に一二時二〇分搭乗、四七分離陸した。天気は快晴、真っ白な雲海を下に見て飛ぶ。
機内飲料として珈琲が出た。十四時四十分着陸。飛行場に降り立つと南国の島特有の太陽の光に満ちていた。

「梅雨明の光奄美の空港に」

十五時バス出発、ガイドさんは森田さん、奄美パークに向かう。十五分ほどで奄美パークに着く。ここには「奄美の郷」と「田中一村記念美術館」がある。先ず記念美術館に行く。

「梯梧咲く田中一村記念館」
「画家眠る島にダチュラの連なれり」
「山法師美術館への道しるべ」
「石の壁灼くる一村美術館」

田中一村について 明治四十一年(一九〇八年)栃木県下都賀郡栃木町(現栃桫木市)に生れる。父は彫刻家田中弥吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮、号は米村。七歳で児童画展で受賞(天皇賞)。一九二六年東京の芝中学を卒業する。東京美術学校(現東京美術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。然し自らと父の発病により同年六月に中退している。昭和二二年(一九四七年)「白い花」が、川端龍子主催の青龍社展に入選、初めて一村と名乗る。その後川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後日展、院展などに出品するが落選を繰り返す。昭和三十三年(一九五八年)第四三回院展に出品落選、中央画壇への絶望を深め、奄美大島に渡る(五十歳)。後大島紬の染色工として働き、蓄えができたら絵をかくという生活を繰り返し、亜熱帯の植物や動物を描き続けた。絵描きとして清貧で孤高の生き方を通した一村は、昭和五十二年六十九歳でひっそりと誰にも看取られずその生涯を閉じた。没後に南日本新聞やNHKの「日曜美術館」の紹介で一躍脚光を浴びるようになった。

田中一村記念美術館は二〇〇一年、旧空港跡地にオープン館長は宮崎緑さん。

美術館は水上にあるかのように水に囲まれ、建物は三つに分かれたお椀を伏せた様で水に写る姿は美しい。作品の制作時代により三つの建物に別れて展示されている。東京時代、千葉寺時代、奄美時代と各部屋に分かれている。

少年時代、七歳で描いた南画の「菊図」、九歳の「蛤図」等童子の絵とは思われない作品。「白い花」は三九歳(昭和二十二年)、青龍社展入選作。二曲一双の屏風の画面一杯にひろがるヤマボウシの葉の緑青に、真っ白い花がまた一杯に画かれている。翌年は自信作「秋晴」を青龍展に出品するが落選。それを機に青龍展を離れた。その他約八十点の作品が展示されていた。今「田中一村作品集」を見るとどの絵も見張るものがある。館内「ガイダンス室」で一村のビデオ撮影を見た。

美術館を出ると梯梧(海紅豆)が花を咲かせていた。別棟の「奄美の郷」へ行き、「奄美シアター」で「奄美の海と森の物語」を見る。亜熱帯の地の多彩な鳥類の棲息を見た。一村が好んで描いたモチーフが沢山見られた。

「南洲の遠流の島や梯梧燃ゆ」

十七時十五分ホテル、ティダムーン着(ティダは太陽を云うと)。眼前に太平洋が広がる。着いてすぐホテル内の大島紬展示場に行く。何百点かの大島紬が展示されている。ミズホさんの気に召した物があった様子。十八時半から夕食。夕食は予約してあった黒豚のしゃぶしゃぶ、美味しかったが量の多いのに驚く。二十時部屋に帰り、俳句の整理などして寝に着く。

「波の穂の駆くる速さや大南風」

●六月三十日(金)第二日目 晴 梅雨明け
七時三十分、朝食は大島紬を織る職工さん手作りの朝ごはん。

八時四十五分、皆さんは金作原原生林へバスで出発した。私は歩行は無理でないかとタクシーで行くことに。その間部屋に帰り俳句作り。外を見ると梅雨明けの太平洋の白波が次々と海岸に打ち寄せる、波が朝日に輝いて眩い。本当に綺麗な海を俳句にしようとしたが、どうしても良い句が出来ない。

「パパイヤの漬物なども島の朝」

梅雨明けの白波きらりかがよへり どうも陳腐。昨日の一村記念館の数句作ったが。皆いまいち、今後の推敲による。

十一時十分タクシー来る。ドライバー藤義昭さん。海岸に沿い南下する。途中ハイビスカス、琉球夾竹桃、ゴールデンシャワーなどの花が咲いていて、ドライバーさんが教えてくれる。枯れかけた松が目立ち松喰虫にやられたのだと。途中田中一村住居跡による。奥まったところにある一軒家。雨が降ったのか所々に水たまりのあと、潦が見られた。一人車で写真を撮りに来ていた。このような家のどこに美術館にあったような華麗な大作が保管されていたのだろうと思った。

ホテルを出た時から気になっていたのだが、昼食の場所で落ち合うのに時間が全然違う。携帯をかけ間違いに気づく。少し行き過ぎていた。十二時十分無事昼食の場所に少し早く着く(AGARUI.)。名瀬の街と港が一望に見下ろせる。すぐ目の前には大きなゴムの木と夾竹桃が咲いていた。食事はアガルイ島料理、生のキュウリ、人参、赤カブや海ブドウが出た。

「夕顔の蔓に躓く海辺かな」
「夕焼の色を留むる潮だまり」
「暮れ泥む浜や夕顔開き初む」
「椰子の実に夏の寄生虫群るる浜」

十三時二十分バスに乗る。手前に連翹やランタナが咲いていた。名瀬の街は一九三六年埋め立てなどをして、地形が似ていると神戸の街にならったと。昭和三十三年訪れた山下清の絵を田中一村がほめたという。バスは南下するが奄美大島の南部は八割が山、へご(桫欏)などの木が多い。長いトンネルが続き一五時に奄美第二の町、古仁屋に着く。バスを降り山道を歩く。小雨が降っていた。木の段々の坂道を約十分ぐらい歩いて高知山展望台に着く。頂上の着くと大嶋海峡が見渡せる、曇り空でも見渡せた。更に展望台があり皆上に登って行った。始め下から見上げていたが、意を決して登り始める。螺旋状の階段を上る事四九段。下で見たより遥かに良い展望、連なる山々の間に広がる入江、ここが天然の良港であることが良く分った。昭和の初めに陸軍の要塞が、大東亜戦争では海軍の軍港として、人間魚雷の振洋隊の基地であったと。島尾敏雄の「死の刺」の舞台となったところ。元特攻隊員が島の娘に恋をして戦後夫婦となるが、のち夫の浮気が発覚、妻は精神錯乱に陥る。夫婦の絆、愛とは何かを底の底まで見据えた人間記録と。その一節を淡々と語る添乗員(福崎道代さん)に感心した。然し残念ながら声がよく聞き取れなかった。

「桫欏(へご)大樹茂りて深き朱夏の島」
「回天の基地を臨むや雲の峰」

坂道を駐車場まで戻り十五時四十分道の駅に寄る。その前にいじゅ(伊集)の花が咲いていた。帰りのバスでの話、日本に島の数は六八五二でそのうち一番大きいのは佐渡島で、二番目は奄美大島であると。

十七時ホテル帰着。時間があるので海岸に散歩に出る。夕方の海は忘れ潮が残り、夕焼けが綺麗だった。枯れた一個の椰子の実が転がっていると思ったら、周りに小さな寄居虫が群れていた。一センチくらいの大きさで、初めは小さくて分からない位だったが手に取って確認できた。海岸には夕顔の花が三四センチくらいに沢山咲いていた。、蔓がのびていてその上を歩いたら足を取られて危うく転ぶところでした。ホテルに近く、「モンパの木」と札が下がった大きな木が海岸の砂地に一本茂っていた。傍に浜木綿が二三本力なく立っていた。

二十時から夕食、途中で姉妹の島唄ライブ。妹が唄い姉が三味線と島太鼓。島料理ではパパイヤの漬物が珍しかった。食後マッサージを九時十五分から一時間たっぷり、足や首のオイルマッサージなど上手だった。費用は七五〇〇円。

「島唄を唄ふ姉妹や夏の宵」
「伊集(いじゅ)の著き道の駅うつ大夕立」

●七月一日(土)第三日目 晴
九時過ぎホテル出発、十時半「奄美きょら海工房」着。さとうきび(砂糖黍)(甘蔗)から黒糖の製造過程を見る。その前に七色の海が広がり、冲ではサーフィンをする人が何人かおられ、岸辺にアダンの木があり実が一個咲いていた。ハンググライダーが一機悠々青空を飛んでいた。一万年前に隕石が落下し出来た奄美クレーターを右に見て大島紬村に着く。

大島紬村は一万五千坪の、亜熱帯植物庭園内にある。織物工場を中心に回る。

大島紬の歴史は六六一年、天智天皇の御代に遡ると。ゴブラン織り、ペルシャ織りと共に世界三大織物に数えられる。門を入って日差しの中を庭園の奥に進む。

工場の中に入り製造工程の説明を聞く。非常に複雑な工程だが、染色はシャリンバイ染を84回、泥染を4回もすると。職工さんの織るのを見せてもらったが、驚くことに一本の糸は既に何色も複雑に染められていて、機を織りながら模様が出来て行くという。どうしてそのような事が出るのだろうと思った。コンピューターで出来るかどうか分からないのに、千何百年から受け継がれて来たのだろう。工場の前の田んぼで、男性が一人泥田に入って、泥染めをしていた。ショッピングセンターに寄る。民芸品,工芸品が陳列されていた。ショッピングセンターから村を出るとき、右側にベンガルヤハズカズラが白い淡い花を咲かせていた。

十一時五十分、ばしゃ山村に着く。昼食は農水省の「郷土料理百選」の第二位の「鶏飯」。鶏のささみ、わけぎ、椎茸、錦糸卵、きざみ海苔などを米飯にのせ、鶏がらスープをたっぷりかけ、お茶づけの様にして食べるものだった。

十三時十分バス、さとうきび畑の連なる道を経て、あやまる峠の手前にて下車蘇鉄などのジャングルを歩く。アダンの咲くのを見たり、五センチにもなる寄居虫が木の根辺りから出てきたりする。十三時五十分、あやまる岬の頂上に着く。「あやまる」の名は「あや」は色、「まる」は手毬と。あやまる岬の頂上の眼下には、梅雨が明けたばかりの紺碧の太平洋が横たわり、空には雲の峰が連なっていた。鬼界が島は洋上はるか、かすかに横たわっていた。頂上には月桃が可憐な花を咲かせていた。十四時十分バスに乗り奄美空港に至る。

「残照や蘇鉄の花の隆々と」

十五時四十分奄美空港発、十七時ころほぼ予定通りに羽田空港着、無事成城宅に帰った。天候に恵まれ素晴らしい旅であった。終始色々面倒を掛けたミズホさんに深く感謝する。ミズホさん無しではこの旅行は出来なかったと深く感謝する。そして天候に恵まれていた事にも。

「紬染む泥田の庭に仏桑花」

  • 田中一村記念館
  • 泥田の中で泥染をしている男(大島納村)
  • 奄美大島固有のブーゲンビリア
  • 高知山展望台より人間魚雷の特攻基地