銀座一丁目新聞

花ある風景(644)

湘南 次郎

文化財保護に賭けた主婦

ゆっくりお話しをしたことは一回しかない方であるが、昭和24年(1949)ごろだったか、ふとしたご縁で声をかけられ、私が歴史好きで先日、奈良平城宮址へ行って来た話をしたところ、急に家に上がって来られて、荒廃の平城宮址整備の熱弁をふるわれた。とにかく、むかしのことで記憶はさだかでないが、当時、拙宅の近くで妹が開いていた店のお得意さんだったので面識はあった。私より10歳以上年上か、もう故人になられたそうだが、お住まいも近くで、目鼻立ちの整った上品な中年の美人の奥様であった。本年、妻の希望もあり、奈良観光を計画、ふと、平城宮址から夫人のことを想いだしインターネットで夫人の著書を知り、「文化財保護ありのまま」岩永 蓮代著(六興出版)を入手した。読んで夫人の偉業にびっくり、敬服した。国史学、文化人類学を学ばれたそうだが、当時、杉並区西荻南在住の普通の主婦であった。ご主人は喘息の大家のお医者さんと聞いていた。

お会いした時、父上の名は「田中智学」(1861~1939)という方だったことを覚えていたので、今回、ネットで調べてみて、高名な日蓮宗の宗教家、われわれが戦争中使った「八紘一宇」(政府は戦意高揚に使ったが、本人は不本意)の言葉をつくった方であった。奇しくも現在、私の在住している鎌倉の亀が谷切り通し西出口に建つ「田中智学獅子王文庫址」の碑があるが、ここで多くの日蓮宗の書籍を刊行していたことを初めて知った。また、鎌倉権五郎神社には「八紘一宇」の碑がある。その智学の四女に生まれたのが蓮代夫人であった。

著書を読んでさすが、父上の血は争えぬもの、文化財保護の並々ならぬ執念には驚くばかりであった。一主婦として多忙の中、荒廃していく日本全国の国分寺を始め奈良平城宮址などの史跡の状態に我慢ができず敢然と立ちあがった様子が書かれていた。それは私が鎌倉へ移住後の活動なので残念であり、改めて、生前もう少しお会いし、後援してあげたらさぞ喜ばれただろう。

著書の中にある姫路市の播磨国分寺址、同国分尼寺参考地には行政の無知と戦いながら整備運動の末、由来記念碑まで寄贈されている。上田市にある信濃国分寺址、同国分尼寺址は信越線(現しなの鉄道)が真ん中を通っているが、発掘後よく整備された芝生の公園になって行政の理解がなされていたが、かつて信越線の車掌区長に文化財保護のため遺跡説明、の車内放送をお願いする手紙をだしたところ、快く引き受け実現され、朝日新聞に「拝啓信越線の車掌さま」として区長も感動したとの記事が載ったそうである。また、夫人は同様に仙台市の陸奥国分寺址にも行政に整備を説得して、石碑も寄進されている。

さて、文中、東京都国分寺市にある武蔵国分寺では、昭和47年ごろ同所に中学建設の計画があり、荒廃がひどい遺跡(特に国分尼寺址)に、家事の合間を縫って重ね重ね文化財保護運動で立ち向かった夫人の意見具申に行政は非協力的で、市の名称が「国分寺」で迷惑をしているというような市長の態度に、絶望しながらもこの無知蒙昧の人々を説得、敢然として荒廃した遺跡の整備を請願し、石碑建立の寄進も決意する。すぐ近くには貴重な鎌倉古道も通っている。ある時は黙視され、あるときは引き延ばされご苦労があったようだ。なにしろ主婦なのだからヒマがある訳もないのにねばりにねばって遂に行政を動かしたのは驚異であった。昭和48年12月、碑の建立が正式に受理され除幕式が行われた。不本意ながら石屋が気を利かして名前を彫られてしまい恐縮しながらも夫人の感懐やいかばかりであったろう。挨拶の終わりに整備された尼寺址に自作の「鎮魂の詩」を朗唱して比丘尼(びくに)(尼僧)の霊に捧げた。

むさしなる国分尼寺  千年の雨に風に  荒廃の姿いたましく
草の葉末に宿るは露か涙か  さやぐは風の音か  比丘尼の悲しむ哀切の声か
されど今昭和48年12月  天平伽藍金堂の跡  さやかにぞ空は晴れて
永劫の碑(いしぶみ)に  「武蔵国分尼寺跡」の名を刻む
安らかに瞑せよ  武蔵国分尼寺比丘尼の霊  みたまよ 今しこの地に鎮まりて
人皆をよく守らせ給え
ああ 武蔵国分尼寺法華滅罪之寺

現在は、多くの子どもたちの社会科見学や史跡探訪の人々が天平時代建立の当時に思いを馳せて見学に来る。改めて主婦でありながら文化財保護に後生をかけ「顧みて悔いなし」の言葉を残して逝った岩永蓮代女史のご冥福をお祈りする。

(註)国分寺、同尼寺は741年聖武天皇の発願により国ごとに建てられた官寺、正式には僧寺を金光明四天王護国之寺、国分尼寺は法華滅罪之寺といい、奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。
(註)夫人の子女、暉子・ホン・バーゲン女史はニューオリンズ日本人会副会長だそうで、DNAは健在なようだ。