安全地帯(548)
信濃 太郎
権現山物語
59期生の歩兵科の士官候補生たちが昭和20年2月から1ヶ月間行った隊付きに関する資料「士官候補生隊付勤務に関する指示」が手元にある。調べたのは私と同じ中部4部隊補充隊(岐阜68連隊)に隊付きした山川充夫君(旧姓上村・14中隊2区隊)である。
隊付きの目的―概ね軍隊教育令士官候補生在隊間の教育の趣旨に準拠し主として下士官以下の所勤務を実習せしめ広く軍隊の実情を把握せしむるにあり。兵隊さんの日常の生活を実際に体験することである。
朝点呼の際、岐阜の2月の寒い中を裸になって乾布摩擦をしたのをよく覚えている。青森の連隊の隊付きに行った同期生も同様の事をしたら連隊長から風邪をひくから止めてくれと注意されたという話を聞いた。
中部4部隊に隊付きした48名の士官候補生の氏名は次の通り。
第1中隊鈴木雋(11-1)酒井清志(12-2)岡田洸(14-2)白井信市(16-1)
第2中隊石原金三(11-1)合川久太郎(12-2)大橋信之(14-1)五島英光(15-1)
第3中隊高瀬俊介(14-2)丹羽敏郎(15-2)吉田好盛(16-2)
第4中隊小出行正(13-1)島田清次郎(11-1)加藤馨(15-1)杉山茂雄(16-1)
第5中隊中村恵二(16-1)道下忠蔵(12-2)鈴木正次(13-1)池田晧(14-2)
第6中隊松田直彦(14-1)池谷哲(14-2)井上和彦(16-1)
第7中隊宮丸富士雄(12-1)三石恵次郎(13-2)松村典彦(15-1)赤松正雄(15-2)
第8中隊横山信夫(12-1)竹内桃太郎(14-2)大場啓一(15-2)大沢義昌(14-1)
第9中隊藤塚外雄(14-2)川合行久(15-2)田原時朗(11-1)
第1重機関銃中隊牧内節男(14-1)上村充夫(13-2)墨田外夫(14-1)
第2重機関銃中隊澤根覚(15-2)中村佳郎(15-2)北原外志夫(16-1)
第3重機関銃中隊堤行統(12-2)筆安晄《14-1》萩倉明(15-1)
歩兵砲中隊赤倉一穂(12-2)菊池昌義(14-1)野村忠夫(15-1)
通信中隊鈴木秀夫(12-2)中川栄一(15-1)木村治平(16-2)
14中隊1、2区隊から13人が同じ聯隊に入ったのだから不安はなかった。大橋信之君は寝台戦友であった。
二、教育の要領 各隊は留営先任将校を以て之が指導に任じ本教育の目的に副ふ如く努むるを要す。
1、実習の重点は週番勤務・内務衛兵及内務班長として勉めて実習体験せしめ止むを得ざるものは見学に止む
2、勤務実習以外の時間に於いては広く軍隊の実情を知らしむるためあらゆる機会を利用して現地現物に触れしむ。たとへは次の如し イ、初年兵教育等の教練武技等に勉めて出場せしめ助教助手等埜動作を体験せしむ。
ロ、部隊の検閲検査などの価値ありと認めたる場合においては所勤務実習に妨げ無き限り出場せしむ
三、四、五(略)
六、期間 自2月19日至3月14日
隊付きの私の思い出は失敗である。3月13日早朝、非常呼集があった。第1重機関銃中中隊の兵舎は他の中隊と離れていたので非常呼集のラッパがかすかに聞こえはした。私たち3人はそのまま寝てしまった。墨田君は同じ中隊で同じ区隊でおとなしい人であった。上村君は重厚な人であった。へまはやるはずがないのだが・・・ところが非常呼集で起こされた同期生たちは前の日B29の空襲を受け大被害を蒙った名古屋へ遺体処理のために出動したという。教育担当の准尉から大目玉を食らった。調べると、昭和20年3月12日未明、B-29爆撃機200機が名古屋市を空襲、105、093人が罹災。死者519人を出した(負傷者734人、家屋25、734棟被災)。まことに弁解の余地はなかった。今考えると、この時、それほどひどい叱責を受けなかったのは歩兵中隊のみの出動命令だったのかもしれないと思う。
他の隊付きの様子はどうか、安田新一君(14-2)は京都へは隊付きに行った。その模様を綴る。「京都第16師団歩兵第9連隊に隊付勤務に派遣された。つまり体験実習である。かねがね戦闘惨烈の極所において部下がついて来てくれるだろうかと思いなやんでいた。昭和20年終戦も間近いころだったが、兵隊さんのほとんど20~30代、40代の召集兵で、現役の徴兵検査を受けた人は皆無、実際起居を共にして愕然とする。夜就寝前にする話は、いつ戦地に行くのか、父母、妻子のこと、食い物のことであった。昼は、忠君愛国、滅私奉公で苛酷な訓練をうけている人たちだ。当時19才の私には校長閣下の訓示を思い浮かべこのことを旨に部下を指揮し戦闘する要諦と、これがわが終生の肝に銘じた金言になった」。
隊付きの資料を調べた山川充夫君(旧姓上村)は安田新一君と予科21中隊3区隊で一緒であった。山川君は平成28年12月23日亡くなった。安田君が山川君への追悼の辞を書いている。
「昨年11月ごろご子息雅典様から父の容体が悪く、ぜひ小生の声が聞きたいとのお電話があり、病床より元気のない声の山川と話をした。慰め、励ましたがあれが最後だった。 彼とは第59期生として同じ区隊(クラス)で起居をともにした堅い絆の同期生で、戦後も役人になり岐阜県内を視察中崖から転落事故で早世されたご長男の東大受験(東大紛争でやむなく京大合格)の際お世話してあげて感謝され、同期生会には必ず出席した仲間であった。彼の母校は岐阜県郡上農林学校であった。生家高鷲村(現岐阜県郡上市高鷲町)は山深い越美南線(現在長良川鉄道)郡上八幡駅よりさらに30キロも山奥とのこと、下宿をしながら郡上農林学校より陸士に合格した異色の秀才であった。入校初めて食堂でパン食があった。一斤のパンがそのまま皿にデンとのり、あとシチューがついていた。前にいた山川が『これが食パンというものか?』と。そしてまず白いところをえぐるように食べ、弁当箱のようにしてから焼いたところ食べていたのを思い出した。彼の生家はそんな田舎だったのだろう。しかし在校中は品行方正、学術優等、2年になり60期生が入校するや指導生徒を命ぜられ起居をともにして新入生の世話をした。小生と同じ歩兵科士官候補生として本科に進学した。まさに立志伝中の人だった。しかし、運命は皮肉、卒業目前終戦を迎え、涙をのんでそれぞれ帰郷したが、心機一転、彼は岐阜農林専門学校に編入学、卒業後岐阜県の農林関係の教育畑を歴任し指導主事、技術教育センター初代所長、大垣農業高校・岐阜農林高校校長で退任、警察学校の参与を経て、閑静な関市で奥様と悠々自適の生活を送っていた。かつて、小生が郡上八幡の城を訪れた時のこと、入場券売り場に偶然、山川の教え子がいて、彼の話をしながら丁寧に城内を案内され、天守閣からかつての山川宅を教えてくれた。山川先生は郡上八幡の名士であった。
昨秋に入って几帳面な彼の残しておいた陸士時代の日記と、生前パソコンに悪戦苦闘しながらしたためた人生記録に基づいて次男の方(これも秀才)が編集された冊子「私の歩んだ道」が送られて来た。わずか3年足らずではあったが、その冊子は充実した青春時代の強烈な思い出、陸士時代が大部分であった。49日も過ぎて先日、親孝行なご子息より丁重な名文のお手紙をいただいた。一部を紹介する。胸せまるものであった。 (前略)【子供のころお風呂でよく父から「士官学校では、お国のために私心を捨てて互いに切磋琢磨した。」ということを聞き、勇敢なる水兵、橘中佐、広瀬中佐、日本海海戦の歌、元寇、太平洋行進曲、空の神兵などの軍歌を歌うなど、自然に父から受けた訓育が、懐かしい思い出となっています。戦後生まれの私も、父の経験談を通じて知った「国のために厳しい訓育、教練に堪えられた士官候補生の生き様と、知育、徳育、体育の一体化した陸士の教育」によって結び付けられた心の絆の強さに心より敬服したものでした。・・・】(後略)
昨年12月22日、奥様の米寿のお祝いを共にし、翌日、「わが人生に悔いはなし」と眠るがごとく、希望―挫折―再生という90年の人生を閉じて、長男のいるあの世に旅立って行った。合掌」
寝台戦友であった大橋信之君とは戦後、名古屋の勤務先に尋ねて再会を果たした。彼は予科31中隊3区隊、名古屋幼年学校出身であった。戦後日銀に入行。その後、名古屋相互銀行の役員となった。私が毎日新聞西部代表の時、上京の折り名古屋で下車して再会しご馳走になった。大橋君は平成12年11月3日死去、お通夜に参加した。竹内桃太郎君は戦後弁護士となり労働問題のエキスパートであった。TBSの顧問弁護士も務めた。安田新一君とは14中隊2区隊で寝台戦友であった。その思い出を書いている。「某日、野外演習を終わり夕刻、整列して夕闇迫るころの帰校の行軍中のことであった。隣に歩いていた竹内候補生がひそかにささやいた。『おい、日本は勝てるのか?負けるんじゃないのか?』必勝の信念を叩き込まれた当時の感覚では、意外に重大な言葉であった。だれもが焦土と化した本土、じりじり玉砕しつつ後退する軍、ひっ迫する燃料や食料でなんとなく感じてはいるものの、口には出せぬ禁句であった。竹内は名を『桃太郎』という奇抜な名前であった。三河三谷の出身で名古屋陸軍幼年学校(中学一、二年から受験して入校)より来た男、身体強健、成績は文武両道で優秀、性格も堅実、とうてい老生の及ぶところではなかった。しかし、図らずも彼は老生の隣同士で起居をともにし、互いに助け合う義兄弟のような『寝台戦友』であった。そのころ「三号甲」という40㎝立法ぐらいの箱型無線機を使った演習で、宿舎にそれが保管してあった。別のコイルを挿入すると民間の短波放送が入って来るのを知った。また米軍の宣伝放送も聴くことができるのでひそかに夜中に聴いたことがあった。当時沖縄戦の最中で、なんと『投降者が多く戦うのに支障を来している、日本の超ド級戦艦ヤマトを爆沈した』とか『ポツダム宣言』などを放送している。われわれ国民はなにも知らされておらず、宣伝放送と高を括っていたが、へんに気にはなっていたのは事実だ。それが8月15日終戦、「桃太郎」の言が的中した。それからの愁嘆場、候補生や学校の行動についてはさておき、8月末、歴史と伝統の士官学校は解散し、涙をのんで帰郷したのであった。終戦翌年のころ。老生の家は杉並区にあった。当時は燃料も乏しく銭湯通いが普通であった。某日、浴槽に入っているとケツを突っつくやつがいる。当時はやくざがはばを利かす時代だったので相手にしないでいるとまたやる。この野郎ッと振り返ったら奇遇も奇遇、湯気の中に『桃太郎』が首だけ出しているではないか。『貴様、三河三谷へ帰ったのではないのか?』交友が再開した一瞬だった。まさに、はだかの付き合いだ。戦後、別れてから広い東京でよく会えたものだ。その上、拙宅よりごく数分のアパートにいるとのこと。三河から出て来て刻苦勉励、司法修習生として勉学中であった。その後、結婚式にも呼ばれ、家族ぐるみの交流があり、従弟の不動産屋に頼んで家も世話してやった。時移り、かれは、おすに押されぬ労働法の大家の弁護士として昭和60年(1945)東京都第一弁護士会の会長の要職に就いたことを知った。そのころ、老生は2、000人からいる母校学園の事務長をしていたが、教職員組合との労働問題では、かげになり日向になって心配してくれ世話になった。理事長にも紹介し、学園お抱えの顧問弁護士には『桃太郎』の話をしたらビックリ、態度が変わる。偶然かれは『桃太郎』の弟子だったのだ。しかし、惜しくも「桃太郎」は平成23年3月13日大動脈瘤破裂で亡くなった。85才であった。その数年前には夫人を亡くされ、苦労だったのだろう。毎年、8月15日が来ると戦友『桃太郎』の言葉を鮮明に想い出す」。