銀座一丁目新聞

茶説

「わたしはこうして執事になった」は出世物語だ

 牧念人 悠々

「おだまりローズ」の著者ロジーナ・ハリソンが書いた「わたしはこうして執事になった」(新井潤美監修‣新井雅代訳・白水社刊・2016年12月5日発行)を読む。5人の男性使用人の話だがサラリーマンの出世物語としても面白く読める。下済み時代にいたずらをする者もあれば恋もする者もいる。失敗も成功も入り混じって、各人それぞれに人生哲学がある。

たとえば、ランプボーイから執事になったゴートン・グリメッド。伝説の名執事エドウィン・リーから教わった教訓は「奉仕は見返りを期待せず奉仕すること自体を目的としてすべきである」ということであった。或る時、ゴートンは牧師さんの世話をする。部屋に案内する時にこの牧師さんの懐はゼロだと判断、服のブラシかけも靴の手入れもぞんざいにして世話もろくにしなかった。ところが帰る際になって牧師は「たいへんおせわになった」と3ポンドをチップとして渡す。ゴートンはリー執事に事の仔細を報告、「奉仕の意味が分かった」と告げたという。サラリーマンの中には「そんな小さい仕事は俺にはできないよ」という者が少なかない。「仕事は小さいものでもつまらないものでもその処理の仕方は大きいものでも同じ」である。

ゴートンが庭師頭の3女と恋におち、問題を起こして館を去る時にリー執事は「これで縁が切れたと思うなよ。こんなことは所詮コップの中の嵐だ。君たちのためにどんなこともさせてもらうよ」という。出来た上司である。ゴートンの結論。「おかれた環境が向学心を育み美しいものに囲まれておれば美的感覚と観照眼が磨かれる。ふと耳にした会話が知識欲に火をつける。さらにモラルも身につく。直接手本を示されるという形ではなく時には観察したり比較したりすることでそれらすべてを使用人は肌で吸収してゆく」これぞ本物の教育というわけだ。

エドウィン・リー。名執事は自作農家の5男。医者宅のページボーイ兼ポニーボーイからスタートする。パン・食料品の運搬の仕事・伯父方での農作業を経て17歳から下男として御屋敷奉公の世界に入る。最初の御屋敷は60歳前後の独身の男性宅。それでも執事の下に副執事、下男3人、家令付きボーイ、雑用係り、ハウスキーパーの下にハウスメイド6人、食料品貯蔵し都づきメイド2人,洗濯場メイド6人、料理人の下に厨房メイド5人、厩舎には第一・第二御者と4,5人の馬丁がいて馬の世話をし箱型のブルーム,幌つきのランドー、小型で屋根のないボギーなどの4輪車、ボックスカートなどの2輪馬車を御していた。運転手もいて蒸気自動車の手入れと運転を担当していたという大世帯であった。このほかにも16人の庭師と車大工が2人屋外担当の大工が2人いた。主人のウイン氏が親から受け継ぎ持って生まれた権利でもあり村の住民に雇用の機会を与えていた。このほか2軒のカントリーハウスを持っていた。下男リーは老体に気に入れられ従僕としてお供した。

此処の2年間の体験は貴重であった。館の運営を肌で感じ得たということだ。次にロンドンの御屋敷に下男として勤める。此処ではナプキン折方について奥方ともめるが自説を押し通す。この奥方には競馬を進められ軍資金まで頂く。此処を1年半で辞め、次に移ったがここも1年間を過ごした後、アスター家に26歳から勤め始める。その後56年間もとどまる。才色兼備のアスター夫人は破天荒な人であった。その行動は予測不能であった。務めてから数週間でリー氏は結論を出す。「自分自身の平和のためにアスター夫人と何らかの形で折り合うように努めなくてはならない。それも他人を当てにせず自分の力で」。つまり自己主張をし、最高の仕事を成し遂げ自分の能力を示す事にした」。ご主人は正反対で生まれはアメリカ人でありながら上等なイギリス紳士であった。やがてリー氏は下男から客室接待係になる。主人の従僕が夜遊びのため首になり一時的にリー氏が従僕を務める。その仕事ぶりが認められて従僕に昇格する。客室接待係は一時外されるが後任が病気したため兼務する破目になる。第一次大戦が起きると軍志願する。軍曹から曹長となり、戦争が終わるともとの職場に復帰する。下院議員であったご主人が父親の死去により上院議員となる。その下院議員の補欠選挙の候補にレディ・アスターの名前が挙がる。リー氏はアスターから相談を受ける。答えは「私なら一か八かでやってみます」である。奥さんはその通りにされて当選。そのお礼に金時計を頂戴する。初めての女性議員として歴史に名を残すことになる。アスター家は多忙を極める。執事のパー氏はついていけず解雇される.後任は有無を言わせずリー氏に押し付けられる。新執事がやったことは人員の一部入れ替え、現場に立ち何をどうしてほしいかを実際にやって見せて新人たちを教育する。難しいのは40人も集まる晩餐会、2千人のレセプション。予行演習をして誰もが果たすべき役割を自覚させた。リー氏はレディ・アスターとは何度も衝突し「辞める」決意をするがその都度アスターが折れる。リー氏を「またとない宝物」というのだから当然である。リー氏もまた夫人の人柄を熟知していたから我慢した。第二次大戦はお屋敷奉公の在り方を根底から覆す。秘密を分け合うようにまで親しくなったアスター卿もまた1952年この世を去る。彼もまた1962年アスター家を去る。リー氏の妻はアスター家の電話交換手であった。義務を果たすことによって満足が得られたという。ここでリー氏はラドヤード・キプリングの詩「もしも…」の1節を引用する。私は「王とともに歩み、なおかつ大衆性を失わずに」すすんだのだという。キプリングはノーベル賞を受賞した海洋詩人。新聞記者にもなじみが深い。「私は6人の正直な召使意を持っている」として新聞記事に欠かせない5W+1Hを明示した詩を作っている。このような本でキプリングに会うとは望外の喜びであった。

ブーツボーイから執事になったチャールズ・ディーン。オヤード・村の肉屋兼パン屋の8人兄弟の第4子。15歳の時から働きはじめ学校のブーツボーイ、仕立て屋の雑役夫。第一次世界大戦には北サマセット義勇騎兵団に入る。1915年5月の戦闘では聯隊の半数が戦死した。

聯隊が再編されると名門出身の上官の従卒に選ばれる。1919年に除隊するまでに大陸風の料理やフランス語やドイツ語を学んだ。戦争は無駄ではなかった。戦後二つの館での下男奉公をする。二つ目の職場の侯爵邸は英国の中では最大の狩猟の拠点。狩猟服の手入れで苦労する。その日の首尾が悪いと当り散らす。これを馬耳東風と聞き流すのがコツと会得する。副執事から多くの事を学ぶ.銀器の手入れは特にそうだ。やがてアスター家で執事リー氏の下で副執事を務める。リー氏は必要なときに必要な場所において問題の芽を端から摘み取っているように見えた。これぞ統率の極意である。リー氏はまた仕事は惰性でやるものではないことも教えてくれたという。ついに夫人がレディ・アスターの義理のいとこにあたるというオポレンスキー公爵の執事になる。公爵夫人の時間の観念のなさに悩まされる。海外旅行の際の手荷物は何とトランク99個に上る。税関が大変。賄賂を渡すかどうかは執事の才覚である。やがて夫人が離婚。スタッフは当然、お金のある夫人に付く。新しい主人からワインに関する貴重な知識を教わる。3度目の離婚の際に転職を決意する。だがここでも仕えた夫人が離婚をする。彼が仕える奥方たちは亭主を変えるが執事を変えないのはまことに不思議な現象である。第二次大戦中、戦時労働を命じられ「警備員」になる。戦後、パートタイムの執事を引き受けた後、レディ・アスターの姪にあたるランカスター夫人の執事となる。レディ・アスターのお付のメイド、ミス・ハリソンとは長年の親交がありしばしば顔を合わせる。やがて口説かれたレディ・アスター家の執事を夫人が死ぬまで務める。有能な執事はいつでもひっぱりだこということである。