追悼録(643)
荒井良徳君を偲ぶ
スポニチで一緒に仕事をした荒井良徳さんが亡くなった(6月12日。享年88歳)。今年の年賀状には「老人ホームでの初正月(、昨年9月、三鷹市内の介護サービス付きホームへ転居)。安穏の中で体調が整いつつある半面、いろいろな能力と好奇心の薄れを気にしながらの暮らしです」とあり、万年筆で「歩きことに励みます」と添え書きがあった。老人ホームへ見舞いに行った友人の話では「元気だった」とのこと。
今年3月、肺炎を患い入院、2週間ほどで退院したが、4月上旬に誤嚥性肺炎で再び入院、食べると戻してしまうことが多く、徐々に衰弱していったという。気配りの人であった。毎日新聞から子会社のスポニチに来た私になにくれと良いアドバスをしてくれた。感謝のほかない。
今年も夏の甲子園全国高校野球大会では埼玉の花咲徳栄が広島の広陵を破って優勝、広陵の中村奨成捕手が6本の最多本塁打を記録するなど話題に事欠かなかった。新井さんも甲子園の孝高校野球を取材している。スポニチ社報(7月25日83号)でOBの整理部出身・星山透さんが荒井良徳さんを偲ぶ。1969年(昭和44年)の夏の甲子園大会で青森・三沢高校の太田幸司投手が前日の松山商業との試合で延長18回を投げ切り0対0で引き分け.翌日の再試合でも9回を投げて惜しくも4対2で敗れた。この時原稿を書いたのが荒井良徳さん。見出しをつけたのが星山さん。「“太田、君にも真紅の大旗を"気力で投げ抜いた942球」。
私も覚えている。いい見出しであった。甲子園からか帰ってきた荒井記者は「俺の記事はあの見出しに負けたよ」と、言ったという。一般的に言うと見出しは記者の書いた原稿の中から選ぶ。しかも勝利チームの栄光を称えるものである。あの好試合を見たフアンは青森の無名校の活躍と黙々と投げる太田投手に感動したに違いない。とすればと、星山整理記者は判断した。「名文記者の一言が私の勲章」と星山さんはいう。
これには後日談がある。それから半月後青森県から編集局に感謝状が届いた。「決戦に敗れた日の無念さ、太田投手の英雄的な死闘が報われなかった悔しさに対し、極めて適切な表現で慰めてくださった好意を心から感謝します」とあった。
ネット時代の新聞づくりに大きな示唆を与える。新聞見出しの重要性である。新聞が持つ"温かさ“である。ネットではこのような感動を与えることは出来ない。見出しの名手・毎日新聞OBの諸岡達一さんは「見出しはミュージカルである」といっている。そう言えば星山さんの見出しはミュージカルであった。
(市ヶ谷 一郎)