安全地帯(547)
信濃 太郎
権現山物語
59期生の歩兵科の士官候補生たちが座間を出発、長野県佐久へ向かったのは昭和20年6月6日であった。この日は、くしも鈴木貫太郎内閣が本土決戦の方針を固め「本土決戦・一億玉砕」を最高戦争指導会議で決定している(御前会議は午前10時15分から11時10分まで宮中・ご文庫で開催)。すでにこの年の2月6日本土防衛作戦に専念するために5つの方面軍が新設された。米軍の本土進攻の時期が九州は昭和20年9月、10月ごろ、関東が21年春と想定された。関東方面の防衛を担当するのは第12方面軍(軍司令官田中静壱大将=陸士19期・司令部日比谷第一生命ビル内)。その隷下部隊の一つ第53軍の軍司令部が座間の士官学校に置かれた(4月16日・のちに厚木に移転)。軍司令官は赤柴八重蔵中将(陸士24期)であった。第一線での勇猛果敢な活躍から「鬼赤柴」と呼ばれた。相模湾を米軍の上陸正面と考えた。戦後米軍の資料で明らかにされたところによれば昭和20年11月1日に九州地方への上陸作戦、昭和21年3月1日に関東地方への上陸作戦が予定されていた。赤柴軍司令官の予想は的中していた。当時座間の士官学校に53軍の軍司令部が置かれたとは全く知らなかった。ただ2月17日隊付きに派遣される際、訓示された校長山室宗武中将(陸士14期)が我々のいない間の3月19日付で砲兵監兼大本営参謀へ転出された。山室中将は陸士51期から54期までを卒業させ名校長として信望が高かった。一旦予備役に編入されたが昭和19年8月から再度、陸士校長に就いた。練兵の達人で砲兵射撃の神様として知られた。砲兵監は三度目の務め。それだけ本土防衛に必要であったということであろう。後任は北野憲三中将(陸士22期)であった。次第に敗色が深まる中、ひしひし迫る切迫感を感ぜざるを得なかった。
本土決戦の方針により長野県は本土決戦の最終拠点とされた。陸・海軍施設の県内移住、軍需産業の地下工場の建設が各地で行われた。望月町域では軍需工場として朝日木器、三盛社、蓼科木器が本牧村に飛行機部品の下請け工場(埼玉県の中島飛行機株式会社)として開設した。布施村には国際無線、協和村には東京計器がそれぞれ疎開した。佐久市の種畜牧場が飛行場に、陸士60期生が田中・浅間六里が原に疎開した。松代には大本営の建設が進められていた。万一の場合には天皇を迎えることも考えられていた。59期生の地上兵科の疎開は陛下をお守りするやくわりもあったのではないかと思われる。
59期生史を綴った「望台」(発行59会・昭和48年8月15日刊)などを参考にしてこの間の事情をみてみる。昭和20年3月22日、隊付きから帰校した59期生は戦術講義を学び、小、中隊訓練に励んだがこの頃よりマリアナ基地からB29の爆撃、艦載機の襲撃が連日のように繰り返された。4月だけでも1,3,7,12,15,19,24日と空襲を受けている。その都度、課業を中断して退避する。対空戦闘配置につくこともある。14中隊2区隊にいた安田新一君は実際に相武台を低空から襲撃してくる米戦闘機に対して92式重機関銃を発射した実戦の経験を持つ。黄島の玉砕(3月17日)沖縄の危機(4月1日米軍沖縄上陸)により内地が米戦闘機の威力圏に入り、整斉たる教育訓練の実施が困難となった。しかも座間の士官学校が米軍の上陸が予想される相模湾に近かったこともあって地上兵科の大部分を長野県北佐久郡本牧村周辺地区に疎開させることになった(5月19日発表)。しかし陸軍士官学校そのもの疎開でなかったので生徒隊の長期演習と呼称し士官候補生たちに戦火から逃避するという感を与えないようにしたという。相武台に残留したのは機甲兵、高射兵、鉄道兵、船舶兵であった。6月6日南校舎から北校舎に移った。58期生は6月17日卒業した。卒業前の6月3日には58期と59期の合同の軍歌演習を行った。6月8日には58期生は阿南惟幾陸相(陸士18期)、土肥原賢二教育総監(陸士16期)、北野憲三陸士校長の陪席のもと宮中で天皇に拝謁する光栄に浴した。
長期演習に当たり生徒隊長八野井宏大佐(陸士35期)は次のように訓示した。
• 長期演習の目的は相武台教育より益々立派な教育を実施するためなり
• 士官候補生の矜持を保て。地方人は括目して一挙一動を見守りつつあり
• 不便な境遇を克服、創意工夫せよ
• 衛生によく注意せよ
• 不十分が修練なり。しっかり勉強せよ
陸士在学中、私は常に「死」を考えた。ぶざまな死に方だけはしたくないと思った。先輩期の中には砲爆撃の物凄さに気が触れて逃げ出した中隊長もいたと聞かされた。朝の雄健神社の遥拝は欠かさなかった。1、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし1、軍人は礼儀を正くすべし1、軍人は武勇を尚ぶべし1、軍人は信義を重んずべし1、軍人は質素を旨とすべしの軍人五箇条を奉唱した。最後に辿り着いたのは責任感であった。与えられた任務を責任を以て果たすという事であった。死は二の次であった。
もちろん息抜きもあった。日曜外出である。14中隊1区隊長久保村信夫少佐(陸士53期)夫人宣子さんは自分史「昭和20年の桜ん坊」(平成元年12月17日刊)「陸士の生徒さん」と題して次のように書いている。
「日曜の休日は一日主人と一緒に過ごす。主人は割と器用な人で。本を読む傍、新居のあちこち釘など打って何かと便利に立ち働いてくれる。(略)そんな朝『今日は陸士の教え子が遊びに家に来る』と云う。早朝から御芋を蒸かし、蒸けた芋をすり鉢に入れて、大事なお砂糖を少し入れ塩味で加減して丸めた芋を布巾で包み女学校の家事で習った茶巾しぼり菓子を一生懸命作って今日の来客を心待ちにする。やがて元気な足音がして、玄関に若々しいキリッとした軍服の生徒さんが見える。出迎えた私を見るとシャキッと敬礼される。主人もすぐ出てきて「やあ来たか、上がれあがれ」と明るい書斎に連れ込む。豪快な主人の笑い声と一緒に生徒さんたちの畏まった声も聞こえる。私も先ほど作ったばかりの茶巾しぼりの芋を小皿に載せて、お茶と一緒に持って部屋に入る。私より一つ二つ上かと思われる紅顔の少年が、私を見ると、キッチと姿勢を正して、ますます畏まる。主人は『膝を崩せ崩せ。ゆったりせい』と自分もあぐらをかき、写真ブックや書類など広げて、嬉しそうにもてなしをしている」
区隊長は昭和19年9月3日結婚式を挙げたばかりであった。区隊長24歳と4ヶ月、夫人17歳と3ヶ月。区隊長の自宅は将校住宅50号。陸士に近かった。小田急線「座間駅」から南の緑の小道を上ってゆくと小豆色やしぶい緑色の屋根瓦の清楚な住宅が松林の中を点々と立っている。その山道からさらに右の小道に入った二軒目が区隊長の家であった。前校長牛島満中将(陸士20期・32軍司令官として沖縄で自決・日本陸軍最後の大将となる)の留守宅も近くにあった。宣子夫人もいろいろお世話のなったという。
宣子さん文章を続ける。「連日凄まじい訓練をたたき込まれている生徒さんたちも教官の又違った面に親しみもわいている様子。やがて昼になると陸士から持ってきた小さな行李の様な弁当箱を広げて、主人も一緒に和やかに昼食を食べだす。何度か私もお茶や漬物、干そう芋。焼き大豆などを以て顔を出すと、生徒さんたちは又緊張して固く姿勢を正す、純情な若々しい姿を見ると私も清々しい気分で、こまごま接待を楽しんだ」
久保村区隊長が亡くなったのは昭和62年12月23日。享年67歳であった。
3回忌の法要の事だと思う。私を含めて同期生5人が前橋で行われた法要に出席した。宣子さんはそのことにも触れておられる。「43年たって、なき主人法要に五人の教え子の方が見えてくださった。皆さん御立派な地位に付かれた方ばかり。その中に当時座間の家に遊びに来られた方が長女の由紀に『毎日男ばかりの中にいる自分が区隊長殿の御宅で奥さんを見てまるで天女のように見えた』と云われたとか。娘は私に告げて『このお母さんががねー』と笑っている。北九州から見えてくださった牧内節男様と知る。また同じ59期の教え子の方で横浜からご出席くださった池田一秀様は、『運河』という同人誌に「ある法要」と題して陸士の頃、主人に鍛えられた様を記されその本を送って下さった.温かく清潔感のある文章で、読んでいる中、あのころの凛々しい陸軍少佐の主人の姿が目に浮かんで,泪しつつ何度も読み返した。
紅顔たりし陸士の生徒白髪も
まじえて亡夫に焼香給う
落城の武人の姿偲ばれる
陸士教官終戦時の亡夫
鍛えられし区助野郎もなつかしか
陸士の教え子亡夫の記せらる」
疎開先で訓練に励んでいたころ、6月17日付で12中隊長・姫田虎之助少佐(陸士42期)が新設の本土防衛兵団の参謀要員で栄転される。入校時から訓練に厳しい方であった。「山砲を富士山頂まで担がせた」と言われた人である。その後任は中国の奥地で第一線の部隊長をしていた村井頼正少佐(陸士49期)であった。時局は本土決戦へと進んでゆく。59期生の長期野営演習は国の方針「本土決戦」の枠組みのなかで考えられと見るべきであろう。「陸軍士官学校歴史記載要領」を見ると「6月5日離校を命ず 59期生徒、第13期満州国生徒(軍官学校)長期野営演習を別冊命令により実施す。一、演習期間 6月7日より当分の間一、演習地 長野県北佐久郡本牧村周辺」とある。当時私たちが聞いたところでは航空はこの年の八月末に卒業。すでに操縦の巧みな者たちは高等練習機の操縦を始めた。徳川好敏航空士官学校長(陸士15期)6月に満州にわたりこの地で操縦訓練に励んでいる59期生に暗に「特攻たれ」と激励している。地上兵の卒業も10月と聞かされ8月全兵科が最後の演習に励んでいる。歩兵の富士の野営演習も卒業前、最期の野営演習であるといわれた。