銀座一丁目新聞

花ある風景(642)

並木 徹

澤田教一の写真展を見る

「澤田教一写真展」を友人3人と見る(8月25日・東京日本橋高島屋)。かなりの人の入りであった。会場には150点の写真のほかカンボジアで銃弾を受け、沢田が使っていたカメラやヘルメットなどの遺品も展示されていた。初めに妻サタさんの写真が目に入る。澤田は昭和30年、高校を卒業すると青森市の小島写真店にアルバイトとして就職。三沢基地内の分店に移った。サタは職場の先輩で11歳年上であった。昭和31年12月に結婚する。プロポーズは電報で「ニュウセキスル…」というものであった。澤田19歳のときである。
昭和11年生まれの若者はいつまでも青森の田舎に満足できない。青春の血は外に向かう。基地で知り合った米軍将校の紹介でUPI通信社に就職する(昭和36年12月)

友人荒木盛雄君が早速感想の俳句を送ってくれた。

  安全への逃避の母子冬銀河
  稲の穂の小さき水田牛一頭
  春泥や屍体引きづる装甲車
  逃げ惑ふ戦禍の叫びすさまじや

UPIのカメラマン澤田が写真家岡村昭彦と知り合ったのは運命を感ずる。岡村ほど「戦争に対する徹底的な憎悪と恐怖」を写真で表現した者はいないからだ。岡村の写真集『これがベトナム戦争だ』(毎日新聞刊・昭和40年3月5日発行)はそのことを如実に示している。澤田は昭和39年末 、UPI通信社支局員として皇太子夫妻の訪タイを取材しての帰り、香港で岡村と会い、「いまからベトナムに行ってもおそくはないだろうか」と相談し、ベトナム取材をきめたという。

写真『安全への逃避』(Flee to Safety)は昭和40年9月6日 - クイニョン北方のロクチュアン村で撮影されたもの。会場では母親に抱かれて川を渡った当時2歳であったグエン・ティ・フエさんが澤田さんに感謝の言葉を述べるメッセージが流されていた。多くの人々がその声を聴き入っていた。この写真でピュリツァー賞をいただいた澤田さんは翌年、村を再訪。賞金の一部をフエさんに贈っている。なかなかできないことだ。テープカットにはサタ夫人もフエさんも出席した。

アメリカ軍のM113装甲兵員輸送車がベトコンの死体を引きずっている写真『泥まみれの死』、『戦死者を搬出する米兵』等々戦争の無残さを克明に写しだされる。一方で「子供たちの無邪気な笑顔』『難民キャンプに避難する市民」など子供や市民の姿にもシャッターを切っている。

昭和45年10月28日 - 取材からの帰途、プノンペンの南約30キロの国道2号線上で何者かに襲撃され、同行のプノンペン支局長フランク・フロッシュとともに殉職した。所持していたライカは持ち去られた。ときに34歳。取材に出かけたのは午後3時過ぎであった。この当時、午後からの取材は危険だといわれていた。仕事の虫も戦場の不条理には勝てなかった。それでも数々の不朽の名写真を残す。恨みは深いプノンペン国道というほかない。

「秋の暮れ恨みは深しプノンペン」悠々