チェ・ゲバラの写真展に感あり
牧念人 悠々
写真家チェ・ガバラの写真展を見る(8月11日・東京恵比寿ガーデンプレイスザ・ガーデンルーム)。ゲバラを革命家とばかり思い込んでいたのが全く恥ずかしい。来日して各地の工場を視察、その合間を縫って広島を訪れ、原爆記念碑の写真まで撮影しているのは驚きであった。今回没後50年を記念して彼自身が撮影した写真240点が日本で初公開された。写真好きで戦の最中にもカメラを持ち歩いたといわれる。平成3年に初めての写真展を開いている。私が会場を訪れた時、札止めの満員の盛況であった。「山の日」の休日とばかりと云えない。現代若者の“写真熱”を感じた。
チェ・ゲバラは本名をエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナという。革命家で、キューバのゲリラ指導者。1928年(昭和3年)6月14日アルゼンチンで生まれ。1967年(昭和42年)10月8日、革命運動中ボリビアで逮捕され翌9日大統領命で処刑された。享年39歳であった。 キューバ革命の英雄が日本に来たのは1959年(昭和34年)7月15日。31歳のときであった。キューバの通商使節団を引き連れて日本を訪れた。精力的に各地を回っている。愛知県のトヨタ自動車工場、新三菱重工の飛行機製作現場を見学。久保田鉄工堺工場では農業機械の製作を見て実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーにも出席している。この他通商のために東京都内の帝国ホテルで池田勇人通産相と会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更して広島県職員案内で広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談している。チェ・ゲバラの写した写真「原爆記念碑」の背景には鉄骨だけの原爆ドーム(旧産業奨励館)、さらに広島球場(昭和32年の開設・新球場は平成21年4月開場)の照明塔まで見える。平和と平等を愛してやまなかったゲバラの思いがよく出ているように思う。その写真を見る人だかりは中々崩れなかった。
チェ・ゲバラ来日の際、『中国新聞』の記者・林立雄が単独取材をした。ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。 私ははしなくも8月10日の「銀座展望台」を思い出す。「あなたはどこの国の総理大臣ですか」問うたのは長崎の被爆者団体の77歳の会長の事である。何故、世界唯一の原爆の被害を受けた国なのに「核兵器禁止条約」に参加しないのかというのだ。もっともの質問だ。すでに日本人はチェ・ゲバラから58年も前にも「なぜアメリカに原爆投下の責任を問わないのか」と問われたのだ。
8月6日「広島原爆忌」8月9日「長崎原爆忌」8月15日「敗戦記念日」。この夏、「あなたはどこの国の総理大臣ですか」の問いは、とりわけ胸に響く。
「どこの国の総理大臣大臣と問う原爆忌」(悠々)