安全地帯(546)
信濃 太郎
権現山物語
毎年敗戦記念日の8月15日は靖国神社に参拝する。今年は同期生の梶川和男君(船舶)、川井孝輔君君(工兵)、霜田昭治君(歩兵)、私(歩兵)の4人で激しい雨の中を参拝した。若者が多いのには驚いた。もちろん他の同期生もそれぞれに参拝している。72年前の昭和20年8月15日、船舶の梶川君は沼津海岸で桟橋構築訓練中であった。工兵の川井君は金沢市郊外の金岩演習場で制式架橋と応用架橋の演習中であった。その日の午後も終戦の詔勅が出たのに予定通り演習を行っている。歩兵の霜田君と私は西富士演習場で本部前に全歩兵科の士官候補生が集合して終戦の詔勅を聞いた。その後、全兵科は演習をいったん打ち切って座間の相武台に戻り、戦争継続か承詔必謹か議論した。私の区隊ではアンケート調査をした。結果は「戦争継続」が圧倒的であったと記憶している。しかし、生徒隊長の断で長野県の春日、協和、権現山などに戻ったのは1週間後であった。
敗戦時、59期生は陸軍士官学校に在学中であったのに13柱が靖国神社に祭られている。全国組織が解散大会を開いた平成25年9月13日には有志58人が集まって靖国神社へ昇殿参拝した。祭神はいずれも航空士官学校に進み、満州各地で飛行機の操縦訓練に励んでいた同期生たちである。内訳は操縦訓練中4人、プロペラ接触事故死1人、ソ連の侵入時、99式高等練習機で脱出途中、山腹に激突、死亡2人、帰国の途次牡丹江駅でソ連機の爆撃で戦死、2人、シベリアに抑留中死亡2人、渡満後発病、入院死亡2人。合計13人である。
この日の朝、参集殿に集まり、拝殿でお祓いを受けた後、軍歌「航空百日祭」を一番のみ奉納した。この歌は航空の55期の梅岡信明さんが作詞、同期の家弓正矢さんが作曲した。梅岡さんは昭和20年7月1日仏印、カモー南方海上で戦死されている。地上兵の連中も軍歌演習の際よく歌った。
「望めば遥か縹渺の
七洋すべて気と呑みて
悠々寄する雲海の
涯、玲瓏の芙蓉峰
ああ八紘に天翔ける
男児の誇り高きかな」
本殿で後藤久記君(航空襲撃)が祭文を朗読する。後藤君はソ満国境近くの杏樹飛行場で訓練を受ける。そこではからずも同期生の死に立ち会う。昭和20年6月6日、杏樹飛行場で平勝夫君が搭乗前、車輪止めを外した後、練習機「ユングマン」の回転中のプロペラに触れる事故を起こした。すぐに杏樹陸軍病院に運ばれ、手術を受けた。後藤君ら10人が輸血をした。意識が回復しないまま殉職した。ついで8月11日。ソ連侵攻で杏樹から列車で南下中、午後2時ごろ牡丹江駅でソ連中型爆撃約20機の空襲を受ける。ここで武山利起男君と仏性泰二君がソ連機の銃撃で戦死する。武山君は後藤君とは寝台戦友であった。なぜか杏樹の同期生の南下が遅れ、ソ連に抑留された者が多く出た。その中で横田清史君と芦沢正名君がシベリアで労役中、タイシェット病院で死亡した。
「13柱 いかで忘れん この絆」悠々
航空に進んだ同期生たちは米軍機の本土空襲が激しいため日本では操縦の訓練が難しくなり満州で操縦訓練をした。操縦の1108名(このほか通信290名・整備202名)が立山武雄大佐(陸士31期)に率いられて昭和20年4月20日、富山県伏木港から牡鹿山丸と江の島丸に分乗して出港、北朝鮮の清津港と羅津港にそれぞれ入港、満州の各地の飛行場へ向かった。積んでいった機材は99高練130機、1式双練40機、ユングマン(4式基本練習機)500機などであった。4月27日までにそれぞれの飛行場に着く。(編成は21中隊・戦闘・鎮東、鎮西。22中隊・襲撃・杏樹。23中隊・重爆・温春・東京城。24中隊・司偵・戦闘・平安鎮。25中隊・戦闘・海浪・海林)
21中隊にいた佐藤成雄君(弁護士・80歳過ぎても自家用機を操縦。2017年7月23日死去)は当時の飛行場の様子を次のように書く。『四周は見渡す限りの大平原で杜も林もなく高粱畑が広がり、北々西の地平線にかすかに見える青い線が興安嶺であった』
操縦訓練は5月18日ごろからユングマンで始まる。8月9日のソ連軍の満州侵攻までに総飛行時間は40時間。科目は基本空中操作(水平直線、上昇降下、上昇旋回、降下旋回)、場周離着陸、単独飛行は速い者で6時間半、平均で9時間半であった。全員が単独飛行を終えた6月下旬に約20%の者が淘汰(操縦不適性と判断され偵察・通信への転科)され、7月7日に海浪に新設された第28中隊へ移った。その後、半数が一般班、半数が速成班に分けられた。両班とも同時にユングマンによる特殊飛行訓練に入った。急旋回、上昇反転、緩横転、失速、錐揉みなどの科目を一応終え、速成班は99高練に移行して場周離着陸に入り、一般班はユングマンによる編隊飛行、幌をかぶって三角航法コースを廻る計器飛行をする。2、3日のうちには高練の単独飛行に出ようかと言う8月9日、ソ連軍が侵入してきた。
99式高連の飛行訓練を急いだのは本土防衛の特攻のためであった。沖縄戦に知覧から9機の高練がすでに特攻に飛び立っている。8月17日に帰国命令が出た。中隊長生本五八少佐(陸士46期)の指揮は見事であった。列車や食料の確保のために統制班長や区隊長が高練で先行して必要な措置をしたので、列車は釜山まで無駄な停車をすることなく、また食に窮することもなかった。杏樹ではいち早く中隊長が飛行機で南下してしまい、残された同期生たちが難儀したと聞いた。指揮官の優劣は緊急な時にはっきりする。8月27日釜山で貨物船を掴まえ出航し28日島根県境港に上陸し、無事に帰校した。満州派遣の59期生の士官候補生のうち13名が靖国神社に祭祀されている。その氏名は次の通り。
吉田哲治 墜落・鎮東・昭和20年5月19日(陸軍少尉)
平 勝夫 プロペラに接触・杏樹・昭和20年6月6日
福島 宏 エンジン停止・温春・昭和20年6月15日
日野宣也 空中衝突・平安鎮・昭和20年6月24日
竹内 清 空中衝突・平安鎮。昭和20年6月24日
武山利起男 牡丹江で被爆戦死・杏樹・同年8月11日
仏性泰二 牡丹江で被爆戦死・杏樹・同年8月11日
豊田信哉 山に衝突戦死・東京城・同年8月12日
衣笠隆雄 山に衝突・戦死・東京城・同年8月12日
奥脇英雄 白城子で病死・平安鎮・同年10月
横田静史 シベリアで病死・杏樹・同年12月
瀬上正夫 奉天で戦病死・鎮西・昭和21年1月24日
芦沢正名 シベリアで病死・杏樹・昭和22年2月11日
なおシベリア抑留者は杏樹で67名、東京城で11名合計78名を数える。シベリアで苦難の抑留生活を送り24年までに舞鶴に復員した。
最後に平安鎮で殉職した日野宣也君が満州に赴いてから作った詩がある。
「夢に見る父母、夢に見る友
その身は千里の海を越え
その声は重丈たる山にかくる
父母は宜きかな、友はよきかな 」
8月15日、私には苦い思い出がある。その日、西富士野営演習場に居た。陸軍士官学校59期・歩兵科の士官候補生達は演習本部前に集合。時に正午。ラジオの玉音放送は聞き取れない。敗戦の詔勅であるのは理解できた。嗚咽・慟哭。不謹慎にも私はほっとした。実は二日前に富士の樹海での“挺身斬込み”の夜間演習で指揮刀をなくした。低い松の木の下に身をかがめ木の根や岩に躓き敵陣に近づき斬りこむ訓練。鞘だけが残り刀身がないのだ。翌日同期生と樹海を探したが見つからなかった。武士の魂をなくせば「重営倉」と覚悟した。その日も朝から探しに行くことになっていた。詔勅を聞いて重営倉をまぬがれたと思った。途端、涙があふれ出た。生き恥をさらし奮闘した戦後であった。
「敗戦忌思いは深し権現山」悠々
「敗戦忌恨みは深し富士樹林」悠々