銀座一丁目新聞

安全地帯(545)

信濃 太郎

権現山物語

権現山の碑前祭には何回も出席した。一時期50名を超えた参加者も次第に減り今では10名前後になった。権現山に来ると陸士時代がしのばれる。懐かしいというより死を覚悟した時期があったという思いの方が強い。59期生が埼玉県朝霞にある陸軍予科士官学校に入校したのは昭和18年4月。航空兵科は予科生活1年足らずで同期生の半数以上が昭和19年3月17日卒業、航空士官学校へ進み、さらに満州で操縦訓練をした。地上兵科は航空に遅れること7ヶ月後の昭和19年10月に卒業、神奈川県座間にある陸軍士官学校に入校。終戦末期を佐久で過ごした。

予科時代はしごかれた思い出はなく楽しく過ごした。半年ぐらいたつと軍服が体になじんできた。娑婆の言葉もすっかり忘れて『…であります』調になった。日曜には外出が許されたが東京には保証人以外知人がいなかったので希望して馬術に励んだ。3回も落馬したので一念発起した次第。落馬しないコツをつかみ1メートルほどの高さの障害も飛べるようになった。同期生はそれぞれに思い出があるようだ。碑前祭に毎回参加している霜田昭治君(予科4中隊1区隊・歩兵)から予科時代の訓練の状況を記した両親(東京・神田神保町3-29在住・今はビルが建つ)に宛てたハガキのコピーをいただいた。当時のハガキが残っている自体、奇跡に近い。それを紹介する(ハガキの値段は5銭)。

「待望の兵種発表は本22日17時より行はれ申し候発表内訳は地上・航空とのみにて細部にわたる発表は無之候私儀予期せし如く地上兵種を命ぜられさらに1年残留致すことに相成り候又丁度本日を以て期末考査も終わり幼年校出身の60期生も20日に到着いたし振武台上一段の活気を放ち申し候」
兵種発表は昭和19年2月22日。航空へは同期生の半数以上に当たる1600名がいった。当時航空決戦の時代であった。私はこの時「大東亜戦争は補給戦である」として「輜重」を志望、区隊長から大目玉をくらった。その区隊長はその年の1月、航空へ転科された。地上の兵科発表は9月13日であった。私は輜重ではなく歩兵であった。60期生の入校式は3月6日に行われた。先輩期になったからと言って60期生に手を下したことはなかった。

「私儀只今富士板妻廠舎にきてをります連日晴天にて富士の雄姿が手に取るように見えます最終日の30日には箱根山長尾峠を踏破して小田原まで夜行軍の予定です行程45キロ大分こたえるでしょうではお元気で私もがんばります」
予科時代、富士板妻に野営演習に行ったのは昭和19年5月22日から30日まである。完全軍装の45キロ行軍はきつかった。予科最後の野営演習であった。私などは富士がきれいであったかどうか記憶にない。

「明後日より5日間測図演習があり今其準備に急いでをります今日初めて写真実習を致し歴史の教官小林教官殿と一緒に撮りましたが残念ながら大失敗に終り些か面目を失いましたこの次はしっかりやってお見せ致しましょう写真は中々難しいものです7月中旬には3日間連続の電気工学及機械工学の実習がありますから7月は多分多忙の中に終わるでしょう先日重機の射撃がありましたが区隊第2位の成績を取り鼻を高くした次第です第一種警戒警報の発令されたときは覚悟を決めましたが今後も相当あるでしょう切にご自愛の程お祈りいたします私も大いに頑張ります」(昭和19年7月ごろの発信)

測図演習は昭和19年7月2日から4次にわたって7月22日まで行われた。測図は不器用な私は苦手であった。等高線の引き方など難しかった。写真は雄健神社を背景に物理教官と林成美君(予科23中隊2区隊・歩兵)を写したピンボケの写真が今でも残っている。科学教育重視で電気工学機械工学は勉強させられた。今でも6気筒・逆火・排爆の言葉を覚えている。米空軍が日本を初めて空襲したのは昭和17年4月18日、東京へ13機、名古屋2機、神戸1機が爆弾を投下して被害が出た。昭和19年11月からB29による定期的な空襲が始まった。そして20年3月10日の東京大空襲の壊滅的被害を受ける。

予科卒業は昭和19年10月13日。翌14日本科入校である。航空が卒業して入校まで10日間の休暇があったが地上兵科にはなかった。それだけ戦局が日増しに悪化しているからであった。同期生一人は「重苦しい、暗い時代に突入しようとしてかのごとく感じてくるのであった」と感慨を述べる。

「私儀予科卒業の折は種々御面倒をお懸け致し申訳も無之候扨私儀14日無事本科に入校し只今環境整理等多忙の一日過ごし居り候中隊長殿は加藤猛少佐殿(陸士40期)又区隊長殿は田上精大尉殿(陸士52期)と申され予科の高林栄大尉殿と同期に御座候何れ教練も近く始ることと存じ候へば今より気を引き締め居り候」
本科では北校舎が58期生(1中隊から6中隊)であった。道路を挟んで南側が59期生で11中隊から16中隊まで兵舎が6棟立つ(現在は瀟洒な米軍の建物となっている)。歩兵は各中隊2区隊、11中隊(武蔵隊)機甲兵2区隊、鉄道兵2区隊。12中隊(陸前隊)野砲兵1区隊、山砲兵1区隊、迫撃兵1区隊,野重兵1区隊、13中隊重(尾張隊)砲兵1区隊、高射兵3区隊、14中隊(浪華隊)工兵3区隊、15中隊(安芸隊)通信兵3区隊、輜重兵1区隊、16中隊(肥後隊)船舶兵3区隊という編成であった。毎朝遥拝のために雄健神社に行くには道路を渡らなければいけなかった。同期生池田一秀君(予科22-2・歩兵・平成22年2月22日死去)が戦後、意外なことを言っていた。「貴様は雄健神社に参ると腹が減っているのを忘れる」と私が言ったというのだ。私には記憶がない。当時腹をみんなが減らしていたのは確かである。不祥事も起きている。陸軍士官学校が市ヶ谷から神奈川県座間の相武台に移ったのは昭和12年9月30日から。敗戦まで50期生から59期生までここで訓練を受ける。今でも自衛隊の敷地の一隅に雄健神社鳥居、相武台碑とともに59期生の在校記念碑がある(昭和61年9月建立)。此処には現在、中央即応集団司令部と第4施設群が置かれている。因みに初代の施設群司令は同期生の山内長昌君である(予科24-2・重砲)。

「お便り有りがたく拝見いたしました御一同様には御健勝の由お喜び申し上げます扨て昭治儀益々元気旺盛にて野営以来風邪も引かず教練に励んでおります故何卒御安心ください西富士の朝は零下十数度も下りますが防寒具炭など支給せられましたので相武台より暖かいぐらいでした教練も愈々最終段階に入り来月中旬より待望の隊付が初まります2月の外出は丁度防空要員で3月になることと思はれます伍長の襟章をお見せできないのが残念ですでは空襲頻繁その折皆々様にはご自愛の程お祈り申し上げます」(日付昭和20年1月31日) 入校時、兵長であったが1月15日伍長に進級した。西富士の野営演習は1月18日から26日まで行われた。調べてみると18日は20時50分、相武台前駅出発、小田原に出て東海道線の「富士駅」から右折して「富士大宮」へ着く。ここで下車、朝飯を取る。麦飯が寒さのために凍っていた。婦人会の人たちが温かい味噌汁をご馳走してくれた。朝の点呼時、行う上半身裸体の乾布摩擦はとりわけ寒かった。この乾布摩擦が今は冷水摩擦に変わり今なお続けている。訓練は小銃、軽機関銃各個戦闘訓練・分隊戦闘訓練・速射砲準備射撃など歩兵にとって必要欠くことのできない訓練であった。隊付きは2月19日から1ヶ月行われた。本来なら予科卒業時に本科に入校する前3ヶ月から6ヶ月,部隊に配属されて勤務する。本科を卒業すると見習士官となってその部隊に配属されるのが普通である。59期生の場合、戦局が窮迫したため省かれた。

「先日突然お伺ひ致し申し訳け無之候同日23時半新宿発19日8時半無事松本に到着致し護国神社に参拝後聯隊に入り候当日は僅かなれど降雪あり気温も大分下り居り候部隊長殿は中村大佐中隊長殿は飯島大尉殿と申され非常にご親切にご指導くだされ候部隊では統べて新品の衣袴を支給せられ其他暖炉の設備も充分にて何一つ不自由も之なく毎日を愉快に過ごし候へば何卒ご安心下されたく候」(日付昭和20年2月22日)。
「私も入隊以来既に旬日益々元気に本分に邁進いたしをります故何卒ご安心くださたく候入隊以来不寝番見習、自炊実習或班内起居等様々な貴重なる体験を積みました2日師団長閣下のご来隊あり将校集会所にて会食致しました来る12日には早朝5時半出発川中島善光寺等名所見学に行く予定です」(日付3月3日)
霜田君の隊付きは東部第50部隊(歩兵150聯隊補充隊)。歩兵150連隊は18年松本で編成され19年1月トラック島に向かう途中米潜水艦の魚雷攻撃で聯隊主力すべて海没した。会食した師団長は52師団長・麦倉俊三郎中将(陸士24期)。霜田君らが隊付きの際は主力がトラック島に出征した後であった。私は中部4部隊(歩兵68連隊補充隊)に隊付きした。連隊長、中隊長の名前すら覚えていない。第3師団に属し師団長は辰巳栄一中将(陸士27期・陸大恩賜)であった。英国大使館駐在武官時代、大使は吉田茂で信頼も厚かった。一度も謦咳に接する機会がなかった。歩兵68連隊は大東亜戦争の際は中国にあって湘桂作戦に従事して終戦を迎える。隊付きの際、兵隊は40歳を過ぎた人ばかりであったのには驚いた。同期生の鳥居崇君(予科23-2・平成24年4月24日死去)は高射兵として大阪の第3高射師団に行った。隊付は高射部隊に4,5グループで分置され実戦部隊と寝食をともにした。3月13日大阪がB29の大空襲を受けた際、雨と降る焼夷弾の中を懸命に高射砲陣地へ弾運びをしたという。その意味では実戦経験がある。3月14日に隊付きが終わり15日に軍曹に進級。10日間の休暇をいただいた。
戦局は日増しに悪化、3月17日硫黄島玉砕・4月米軍沖縄上陸…帰校後私の中隊だけが過酷な訓練が待っていた。一週間連続の夜間演習である。挺身斬りこみの演習であった。闇の中、匍匐前進ばかり訓練させられた。風呂に入れず武器の手入れも十分できず、落ち着いた気分になれなかった。いささかふてくされた。5月19日長野へ長期野営演習の発表があった。そのため編成替えがあった。12個区隊ある歩兵を4個区隊づつ一個中隊を編成した。第11中隊(春日国民学校)、第12中隊(協和国民学校)、第13中隊(南御牧村国民学校)となる。権現山の遥拝所は蓼科国民学校のすぐそばにあった。敗戦直後から復員までここで過ごした荻原積君は「権現山の遥拝所にて沈思黙考、万感胸に満つ」との感慨を残す。