安全地帯(544)
信濃 太郎
権現山物語
権現山『遥拝所跡』の碑は人々からどのように見られたのか。地元の人たちや新聞からは平和を願う歴史の史跡と受け止められているようだ。依田英房翁が青少年の励みとなるように立てた碑の趣旨が生かされているとみてよい。平成18年3月、長野県の望月高等学校(佐久市望月)から「望月陸軍士官学校」-僕たちの町にも戦争があった・世界平和を願って-の小冊子が誕生した。この3月の卒業生が昭和20年6月から8月の終戦まで長期演習の名目で同地に疎開してきた陸士59期生についての調査報告を記載した「卒業記念文集」である。彼らにとってこの調査は「生きた教育」になった。確か前の年の4月の碑前祭には望月高校の生徒たちが調査を兼ねて参加した。
聞けば、卒業生が2年生の時、総合学習・沖縄修学旅行・平和学習の一環として「陸軍士官学校」を取り上げた。校長の吉田茂男さんの父親は当時陸士の学校本部の置かれた望月高女(望月高校の前身)に勤務していた。生徒たちは数年前まで北野憲造校長(中将・陸士22期)が使った机や陸士の焼き印のある椅子が今なお残されている(郷土資料館蔵)ことを知ってびっくりしたという。陸士の先輩や59期生、町の古老から聞き取り調査もした。この研究成果を2年の文化祭の時、発表したところ新聞に取り上げられたり手紙が寄せられたり反響を呼んだ。59期生の地上兵科(歩兵)である私も知らないことが書いてある。北野校長が大和屋呉服店(望月)、生徒隊長八野井宏大佐(陸士35期)が武重酒造(茂田井)、区隊長などが37軒の民家にお世話になったのを初めて知った。終戦直後、望月高女、中学、各国民学校で何日も書類焼かれ、地図だけで7万3千枚を数えた。軍需物資は川西10ケ村に分配され、軍馬は一頭300円ぐらいで北御牧地方に払い下げられた。8月19日に「檄文」が撒かれたことも記してある。「午後3時又新たななる事件突発せり。憂国の熱情たぎる皇陸海奮起戦の報なり。望月の陸士より発せられし物と思ふ」(両沢充子の日記)とある。この頃それぞれの演習地から地上兵科は神奈川県座間の士官学校に集結した。この文集に収められている59期生・歩兵 荻原 積君(予科25/3本科13中隊)の日記「8月19日月曜日 晴れ 涙と共に勅諭奉読 不忠ヲオハビス」とある。私たちの区隊では「徹底抗戦」か「承詔必謹」でアンケート調査をして提出した記憶がある。座間は騒然とした。隣接する厚木海軍航空隊で徹底抗戦のビラを撒布した。
高校生の生徒の「これからの日本はどうしたらいいですか」の質問に答えて54期の笹島孝一さんが「愛国心を持ってほしい。戦争で死んだ人のことを考えてほしい」と答えている。私の願いでもある。大東亜戦争での総死者数310万人以上の犠牲の上に70年間も戦死者皆無という平和が築き上げられている。高校生が在学中に平和・戦争を考え地域の人々と交わりを持つのは教育的であると感心させられる。
なお59期生が送った資料も収められている。藤野浩一君(31/2・船舶・平成21年9月1日死去)高山統君(1/2・航戦闘・平成21年9月死去)三浦章君(27/1・航通信。平成19年1月23日死去)不破喜久雄君(6/3・山砲)牧内節男君(23/1・歩兵)梶川和男君(27/3・船舶)荻原積君((25/3・歩兵・平成21年12月25日死去)らが協力した。
平成22年4月29日の「信濃毎日新聞」は28日に開かれた最後の碑前祭を取り上げている(その後も最後最後といつつ毎年開く)。参加者28名。同期生上野明男君(16中隊1区隊)の談話が記載されている。「ここまで登ってくるのがやっとなった。碑前祭が終わるのは悲しい」。このほか同紙は連載「昭和の舞台」(43)で権現山の碑を大きく写真を載せ「今桜花に託す永久平和」の見出しで59期生の長期演習の模様を伝える。読売新聞も平成23年8月17日「疎開」(2)-望月の士官学校―というタイトルで食糧不足の中で戦闘訓練をした模様などを綴っている。
此処が一時公園化する話が持ち上がったが地主の諒解が得られず実現しなかった。それでも春となれば桜が一斉に咲くので桜の園であるのは変わらない。
平成19年4月の碑前祭の様子を本紙が伝える(5月1日号「安全地帯」)。
恒例の長野県佐久市の権現山碑前祭に参加した(4月20日)。前日の寒さがウソのような温かな日和であった。昨年は肌寒く桜もつぼみであったが今年は満開であった。「皇居遥拝跡碑」と「依田英房翁顕彰碑」の前に参集した同期生は北海道、岩手、東海などから42名を数えた。私たちが念願とした権現山の公園化に佐久市が今年から予算をつけ公園整備に動き始めた(注・残念ながら中止になった)。
「櫻吹雪兵どもも80歳」(悠々)
残念であったのは権現山の記念碑の維持管理・公園化に努力、奔走、碑前祭には必ず姿を見せた三浦章君(平成19年1月23日死去)が長男・正章君の胸に抱かれて遺影で出席したことだ。あの訥々とした語り口が忘れる事が出来ない。
「碑前祭こぞの友亡く櫻咲く」(悠々)
来賓として佐久市副市長、竹花健太郎様(前望月町長)、同市議会副議長、坂本久夫様、同市議会議員、三浦正久様が出席された。竹花副市長が來賓として挨拶「学校本部のあった望月町長でしたので皆様と厚いつながりを感じております。皆様の期待に応えて公園整備を始めます」と約束する。
この朝、昨年の同じく新宿西口にバスが用意される。午前8時半33名がバスで現地に向う。車中で村井益男君(航空司偵・平成23年6月14日死去)が依田英房翁から頂いた直筆「カニ」の絵の色紙を回し見した。梶川和男君の説明では「カニ」の絵は「依田翁顕彰碑」の碑石裏の銅版に刻み込まれており、生前翁が好んで揮毫されたものだという。山内長昌君(重砲・平成25年2月21日死去)が「新聞広告で佐久に関する本を見た」と高木国雄著「佐久の水音」(作品社)を紹介する。武士を捨て新田を開発した五郎兵衛の物語である。山内君の好奇心に感心する。早速ネットでその本を申し込む。昨年望月高校の生徒達が作った「望月陸軍士官学校」の冊子を送った北海道の野俣明君がわざわざ席まで来て「君の大連時代の友人松岡さん(58期・山砲・札幌在住)に電話して言伝を聞いてきたよ」と、リハビリ中の松岡さんの消息を伝えてくれた。同期生の気配りが嬉しい。現地まで3時間、つかのまの旅は人情の機微に触れ、貴重な情報交換の場でもあった。
「書読む友に励まされ花愛でる」(悠々)
2次会の「佐久ホテル」には三浦大介市長が公務の合間を縫って姿をみせ「あわてず、出来るところから公園化します。来年は碑前祭に参ります」と挨拶する。おかげで宴会は例年になく盛り上がった。