銀座一丁目新聞

追悼録(639)

「下山事件の真相を聞きたい」

名古屋で不動産業を営む青年川島卓也さんがメールで「黒崎貞次郎さんの事を聞きたい」といってきた。メールでやり取りした結果、「下山事件の真相を知りたい」ということなので京王線府中駅改札口で会った(7月7日午後)。事件から68年目の夏、私は青年に「下山事件が自殺である」という真実を資料とともに語った。 黒崎さんは昭和23年から昭和24年に毎日新聞の社会部長を務めた人で後に毎日オリオンズ球団代表(昭和25年結成)になる。昭和24年7月5日に起きた下山事件の時は社会部長であった。物を書くことが好きな川島青年はプロ野球球団「高橋ユニオンズ」(監督浜崎真二)を調べていくうちに黒崎さんにたどり着いたという。下山事件とは昭和24年7月5日朝、国鉄総裁下山定則(49)が東京・大田区の自宅から車で丸の内の国鉄本社へ向かう途中、日本橋三越本店に立ち寄ったまま行方不明となり、6日未明、足立区五反野南町の常磐線で轢死体で発見された。当時、国鉄人員9万五千人の整理問題があり、東大法医学教室の解剖の結果死後轢断と発表されて新聞は「自殺説」(毎日新聞)と「他殺説」(朝日、読売新聞など)に分かれた。警視庁は「自殺」としたが公式な発表はなかった。

警視庁捜査一課の捜査資料によると、行方不明となった三越から死体発見現場の五反野南帳町までに確実な目撃者が17名いた。その足取りは三越から地下鉄で浅草まで行き、此処で東武線に乗り五反野南町で下車、末広旅館で暫く休憩して常磐線の現場に向か、五反野南町の現場で列車に飛び込み自殺したと推定された。常に下山総裁は単独行動であったということである。他社が伝えた「車で現場に連れて行かれた」とか「末旅館で休んだのは替え玉であった」などと言うのは虚報であった。松本清張が唱える謀略説などでは決してない。 「末広旅館発見」のニュースは毎日新聞の特ダネであった。取材者は入社2年目の高橋久勝記者であった。海軍予備学生出身の艦爆乗りの特攻要員であった。取材対象を旅館に目につけたのは見事だが旅館の女将さんは「警視庁に口止めされているので言えません」と取材を拒否した。連絡を受けた名倉憲二サブデスクが察回り記者2名を連れて末広旅館に駆け付けた。女将さんの顔を見るなり名倉さんの第一声は「警視庁総監賞ものですね。おめでとうございます」であった。たちまち女将さんは口を開いた。下山さんそっくりの紳士が5日午後2時ごろ訪れ二階畳半に約4時間休憩し午後6時ごろ代金200円とチップ100円を支払ったという。このニュースは7月8日毎日新聞朝刊・社会面トップで報道された。女将さんは下山総裁の財布の出し入れ、お金の渡し方、紐のある靴の履き方の下山さんの癖まで的確に証言した。

事件担当の平正一デスクは重役から「なぜ他殺説を報道しないのか」詰問された。その都度「他殺説は取材すると裏付けが取れず消えてゆくのです」と答えるのであった。警視庁記者クラブのキャプと副キャップは当時の増田甲子七官房長から呼び出されて「毎日新聞の報道で左翼攻勢の突破口を与え、国民生活を再び混乱に落としられたらあなたの新聞の責任は大きい」と圧力をかけられた。この間、黒崎社会部長は事件に強く、心があり信念の持ち主である平正一デスクを最後まで信頼、口を出さなかった。 法医学の出す結論はあくまでも捜査に一つの資料を提供するに過ぎない。それを裏図けるのは捜査である。これを他社の記者たちは知らない。法医学も間違えることもある。けして厳然たる科学的真実ではない。「死後轢断」と言ってもどの様になってそうなったのか捜査しなければわからない。今回の場合、東大法医学教室の結論は誤りであったということである。後で分かったことだが下村総裁を轢断した列車の車輪に付着した肉片からは生活反応が出てきている。最初に下山さんの死体を検死した監察医は「飛び込む自殺でしょう」と言い、これまで100体の轢死体を検死した体験から大きな圧力をかけられた死体には生活反応が出にくい場合もあるといっている。

昭和24年8月3日毎日新聞が一面トップで報じた「下山事件近く結論発表」「特捜本部、自殺と断定」「きよう合同会議」記事はGMQの指示で「自他殺不明」と言う結論になり「誤報」となってしまった。当時、日本は米軍の占領下にあった。権力の前に真実は時に歪められてゆく。今なお下山事件は自他殺不明になっている。むしろ他殺説が横行、それ書いた本が売れてゆくのだから不思議である。事件から68年の夏、毎日新聞で当時事件を取材したのは記者は私一人になってしまった。いまは亡き黒崎貞次郎さん(昭和50年10月30日死去・享年73歳)、平正一さん(昭和42年11月死去・享年62歳)、感慨如何に…。特ダネ記者高橋久勝君は平成23年5月14日死去、86歳であった。「冥途ゆく吾を肴に古酒を酌め」を辞世の句として残す。「極暑や南無阿弥陀仏吾一人」(悠々)と詠むほかない。世の無常をひとしお感じる。

(柳 路夫)