銀座一丁目新聞

安全地帯(543)

信濃 太郎

「権現山物語」

陸士59期生の歩兵科の士官候補生たちが佐久にいたのは昭和20年6月6日から8月30日まで3ヶ月間である。而も8月3日から西富士へ卒業前の最期の野営演習へ。西富士で敗戦を迎え終戦の詔勅を聴き、8月15日から22日まで本科のある神奈川県座間の本校で戦争続行か承詔必謹かで激論の末、佐久に戻り31日復員する。正味僅か2ゖ月に過ぎないが北に浅間、南に蓼科の秀峰を望むこの地は思い出が深い。 島崎藤村は歌う。「暮れゆけば浅間も見えず 歌悲し佐久の草笛 千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばしなぐさむ」

佐久は確かに人を引き付ける風物詩がある。"歌悲し佐久の兵ども夢話“を綴りたい。 早速、現地自活作業が始まる。山裾の荒地を耕して大豆とそばの種をまく。肥料は掘り出した木の根を焼いた灰である。残念ながら収穫時までここにはいなかった。ご飯はコーリャンに汁の実はアカザの葉であった。その若葉は食料となるが、貧しい食料のたとえを「アカザの羹(あつもの)」という。蓚酸含量が多い。何故か便秘する者が少なくなかった。当時はひもじい思いをした。演習の際、持たされる昼ごはんを朝ごはんと一緒に食べて演習後半ばてる者も出る始末であった。夜間将校斥候に出された同期生たちが山の中で道に迷い、付近の農家で聞くと、「後で娘に案内させますから」と同期生たちを家の中に招き入れ、苺をたくさん振る舞わったという村人の温かさを伝える話もある。もちろん帰隊後、彼らが区隊長から大目打を食わったのは言うまでもない。ツツジの花を食べたものもいた。薬屋から「わかもと」を買ってきて腹を満たした者もいた。

「現地戦術」を教わった。私などは「師団長の決心いかに」と問われたら「決心攻撃、重点・左」と答えることしか覚えていない。敵と千曲川を挟んで対峙している場合、砲兵を山腹に配置すると書いて「原案通り」といわれたとある同期生が威張っていた。だが、圧倒的な米軍の砲火の前になすすべはなかったであろう。夜間の挺身斬りこみの演習はここでも西富士でもよくやらされた。日本軍に残された局地戦での勝利の戦術が「挺身斬りこみ」であった。徹底的にしごかれた。みんな死は覚悟した。私はぶざまな死に方はしたくないと思った。

佐久でよく歌った軍歌は「仰げば巍巍たる」(作・高頭虎四郎曲・「ああ玉杯の」譜)であった。敗戦の悲報が相次ぐ中、卒業を後百日に迎えた感傷からであろうか。「あと百日を惜しみつつ 歌う弥生の春の宴 記せよ吾が友、とこしえに 学びの昔、顧みて 行けよ吾が友、勇ましく 護国の剣、手にとりて」 佐久を去る復員時、生徒隊長八野井宏大佐(陸士35期)は「生き恥をさらすことに甘んじ真に皇国将来のために懸命の祈願と無言の奮闘に生くべし」と訓示した。 私は復員後マスコミの世界に進み、その仕事を終えた後、「銀座俳句道場」をネット上で開設した。会員は30名位いた。第五回目に私の句「ひまわりの先に1945年の恋」が選ばれた(平成13年9月1日号)。選者の寺井谷子さんはいう。『今回、「天」に道場主の作品を据えることは、私としても色々考えた。何より、道場主が仰天するかもしれない。しかし、「1945年の恋」は、私を捉えて放さなかった。1945年、昭和20年の暑い夏。あの夏にも向日葵は咲いていたのだろうか。眼前の向日葵の輝きに、56年前の夏が重なる。戦時にも、戦時なればこそ深い思いの恋の記憶。戦時下の青春。輝く言葉で、戦争というものの無慙が伝わる。この一句を、私は胸中の平和句集に「記憶」する』。

私は佐久の金山にあった協和国民学校で寝起きする生活の中での淡い恋の思い出をつづったに過ぎない。望外の喜びであった。毎年の夏、10日間過ごす長野市戸隠にひまわりの群生を見る。なぜか思いが込み上げてくる。