追悼録(638)
友人堀井淳夫君を偲ぶ
毎日新聞社会部で一緒に仕事をした堀井淳夫君が亡くなった(5月31日・享年90歳)。「偲ぶ会」が7月27日東京・竹橋のパレスビルのレストラン「アラスカ」で開かれる。年は1つ違いだが彼は福島支局が出だしだから社会部に来たのは私より4、5年遅い。亡くなってつくづく思ったのは、彼の人徳である。部下からこれほど慕われた記者はいないだろう。その意味では彼が羨ましい。私などはデスク時代、鬼軍曹と言われた。孔子は言った。「徳弧ならず、必ず隣有り」。
友人の堤哲君は書く。『社会部の最後は東京西支局長。夕方になると、支局長自らがツマミを用意して、ビールを出した。「桃源郷のようだった」。昨年、卆寿のお祝いに集まった後輩たちは、堀井さんの人徳を語った。そういえばロッキード事件(1976年)の取材班によく陣中見舞してくれたのも、西支局長時代だった』。当時、私は社会部長であった。バナナを差し入れてくれたことを思い出す。
彼は本当に思いやりのある人であった。先日亡くなった佐々木叶君が入院した際にも、わざわざ友人と見舞いに行っている。佐々木君が泣いて喜んだという話を聞いた。そういえば何年か前に亡くなった佐々木武惟君(元社会部長)にも病院へ見舞いに行っている。私が昭和23年、社会部にいたころ慶応出の鈴木二郎さんというデスクがいた。新人の私に優しくしてくれた。社内野球ではキャッチャーで、私がショートであったのでなおさらよくしてくれたのを思い出す。なぜか、毎日の慶応出身者には仁徳者がいる。
よく彼と麻雀をやった。彼は強かった。かなり強引な麻雀でもあった。時には徹夜になることもあったが慶応大学陸上部出身の体力ある彼は負けることは少なかった。負けると「山の木を一本売ればいいんだ」と言っていた。つきあいのよい彼はかなりの山の木を売ったと思う。山形の実家は、鉄道の引き込み線があったほどの材木商であった。麻雀に強いものは「事件にも強い」と言われる。彼が事件に強かったという話はついぞ聞かなかった。
毎日新聞が新旧分離の頃、請われて初代「くりくり」編集長となった。面白い地域紙であった。今でも残っているのが「くりくり少年野球大会」。55歳定年で毎日企画センター(現毎日企画サービス)の旅行部門を任された。たまたま都庁に親しかった社会部のOBが重要な役職にいたのを活かして交通会館2階にパスポート出願手続きを代行する営業所を開設。大いに業績を上げた。彼も今やなし・・・こころからご冥府をお祈りする。
2017年5月31日逝去、90歳
(柳 路夫)