銀座一丁目新聞

安全地帯(540)

信濃 太郎

同期生の会・「世田谷59会」開かれる

上野動物園にパンダの赤ちゃんが生まれた日(6月12日)同期生の会・世田谷59会が開かれた(世田谷三軒茶屋・銀座アスター)。参加者18名。地元は6名。その中に紅一点・北川泰二君(平成12年死去)夫人美枝子さんの姿があった。また陸経の河野一欣君が出席されたのも嬉しいことであった。初めに最近亡くなった狩野弘道君と小田暁君に黙とうを捧げる。世話人の荒木盛雄君が「出て良かったという会にしたい」と挨拶する。外出の機会が少なくなった私には知的刺激を受けるのが一番楽しい。6月になって2日の「ミュシャ展」に続く2度目の外出だ。

羽村から2時間以上かけて出てきた59会の世話役・清水廉君は「2世の会を何としても育てていきたい」と語る。59期生の語り部になるのも一つの道ではないかと思う。丸野勲君は陸士52期生の世話役をしている。兄の弘さんが52期の航空。昭和17年9月25日仏印ハノイで戦死している。彼の体験も貴重だと感じた。

鬼沢正君とは久しぶりに会う。居合3段。今でも稽古しているという。居合の稽古をしている写真を見せてもらう。俳句が抜群にうまい。学士会報に掲載された句を紹介する。

「琵琶の花翁生家の暗き土間」(第923号掲載)
「鎮魂の炎のごとし阿蘇を焼く」(第924号掲載)

「歩くことを心がけている」という佐藤九州男君は知覧・沖縄・サイパンの慰霊の旅をした感想文を配布する。『今は「ミレーの晩鐘」または「落穂拾い」に描かれた貧しくともささやかな落ち着きの中に人の幸せがあるのではなかろうかと思うようになりました』と書き添える。私は昨今「人間相互の愛情が人間生活の基本」とつくづく思う。世の中万事、暮らしの基礎はここにある。テロで無辜の民を殺害するなど許されたことではないと痛憤する。

陸士59期生は昭和18年12月9日埼玉県朝霞の予科在学中に昭和天皇の行幸があった。その際、天覧試合・天覧授業などが行われた。中島知行君の国史考査の答案が模範として天覧を受けた。その貴重な答案のコピーが配られた。国史の試験は18年10月12日とある。私など全く歴史の試験にどのような問題が出たのかも記憶にない。隣に居座っていた中島君は記憶していた。そう言えば2年前の権現山碑前祭の際、いろいろ古い記録をいただいたことがある。

4年前から大船ですでに7回も同期生の会「五輪の会」を開いている霜田昭治君が会を長続きする秘訣を語る。また呼吸法による健康法も説く。帰り際に「安保法案は違憲!?―渦中の憲法学者・長谷部恭男教授に訊く」(18頁)のコピーをいただく。「よく読んで勉強しろ」の忠告として袋に入れた。成城4丁目に住む入江康介君は膝の関節症にかかり足が弱くなっているが「自分でやっていくしかない」と思っているという。私は「自分の体は自分で守るものだ」と自覚している。安田新一君から権現山碑前祭の古い資料をいただく。敗戦直前陸士59期生の地上兵科が佐久の望月付近に長期演習の目的で疎開、終戦までここで寝起きした。昭和41年秋、当時の蓼科村の村長依田秀房さんが権現山に「遥拝所跡」の碑を建立したことなどなどが書かれている。この日、梶川和男君が権現山の碑を何としても後世に残したいとものだと地元の石井勲君(昭和54年死去)などの努力を話した。最愛の夫人を亡くして全国大会など会合に出席しなかった田中長君が珍しく姿を見せる。幼年学校の同期生が自宅まで訪ねてきて励ましてくれたと"同期の絆“を語る。司会を務めた北俊男君はハーモニカを吹き、歌を歌う。「一高寮歌」「人を恋うるの歌」…サービス精神,盛ん。昭和40年ごろ北ドクターが経営する病院は50人ばかりの同期生の患者で溢れ、そこでミニ同期生会を開く有様であったという。昔から人徳のある同期生であった。川井孝輔君は千葉地区の同期生の動向を話しする。此処の会報はいつも充実している。西村博君は「もう少し夫人連れが多くなるといいのでは…」と提案する。赤堤1丁目に住む森尻忠君の話をつい聞きそびれてしまった。私は最近見た映画「花戦さ」の感想を述べ、北川夫人に持参した岡井揺萩著「小倉百人一首」(画・書)を贈った。最後は荒木君の「千秋楽」で会を締めた。帰途同じ方向の田中長君と世田谷線に乗る。北君が歌った「友を選ばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱」がいつまでも心に残った。