銀座一丁目新聞

花ある風景(635)

牧内 節男

歌も良し俳句良きかな歌供養

折に触れて画家・岡井揺萩さんの「小倉百人一首」(書・画)をひも解く。「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ」(天智天皇)。原歌は万葉集巻10-2274の「秋田刈る仮慮を作り我がおれば衣手寒く露ぞ置きにける」(秋田刈 借慮乎作 吾居者 衣手寒 露置尓家留)。この歌は読人知らずで『新古今集』にも入っている。その間の事情を知りながら選者藤原定家が天智作としたという。子供のころ正月には百人一首のカルタ取りに打ち興じたものである。

日本人は昔から詩歌の心得を自ずと教えられた。新渡戸稲造著「武士道」(訳・矢内原忠雄・岩波文庫)には面白いエピソードがある。ある田舎侍が俳諧を進められ、出された題は「鶯の音」。「鶯の初音をきく耳は別にしておく武士かな」と詠んだ。それでも俳諧の先生は彼を励まし、ついに「武夫(もののふ)の鶯きいて立ちにけり」の名吟をえたという。このほか、江戸城を作った太田道灌が槍に刺された時、刺客が「かかる時こそ命惜しからめ」と詠むと、道灌は致命傷にも屈せず「かねてなき身と思ひ知らずば」とつづけたという。現代のもののふはこんな句を作る。

「敗戦忌股肱の臣の真の闇」(荒木盛雄)
「ひまわりの先に1945年の恋」(悠々)

こんな辞世もある。清水次郎長の句(明治26年、73歳で死去)である。
「六でなき四五とも今はあきはてて先だつさいに逢うぞ嬉しき」

博徒らしくサイコロの目を織り込みながら思いを歌ったものだが今の政治家にはこのような歌は読めまい
戦後女性は強くなった。いや、昔から強かった、家庭円満の秘訣は「かかあ天下」にしておくことだといわれている。

「謹んで申し上げます 矢車草は弓矢のかたちに千切れます」(鳥海昭子)。養護施設で長年勤務した鳥海さんが当時の知事から功労賞を贈られた際、詠んだ歌。頑固で反骨精神十分な鳥海さんらしい作品である。わたしは鳥海さんの「書くことは考えること生きること明日の陽の出は6時8分」が好きである。

作曲家船村徹(2017年2月16日死去・享年84歳)は「歌供養」を6月の季語にしたいと自分の誕生日の6月12日に毎年、会を開いていた。それは歌謡界では毎年、何千という歌がつくられては消えてゆくのを惜しんだからである。今年の1月船村さんの俳句
「あの世から追われてまたも初日の出」
「歌悲し読経の中歌供養」悠々「幾千の忘れ消えゆく歌供養」悠々
「歌は世につれ、世は歌につれ…」歌は時代の鏡である。

明治30年(1897年)7月1日東京日日新聞は「進行歌」を掲載した(行進曲の前は進行歌と言った)。
「晴るる間なき 五月雨は 四民(人民)の悲憤の涙かも 啼いて血を吐く杜宇(ほととぎす) 志士の慷慨の心かも 無能無策の閣臣は 只 権勢を貪りて 為すべき術(すべ)を知らぬ也 財政内に紊乱し 国権外に屈辱し 戦勝国の 勲業は 烟の痕と 消え失せん 立憲政治の 贈は 雲の行衛と 滅びなん 責めよ 咎めよ 大臣を 突けや 崩せや 内閣を 私権威福を 専横し 公論清議を 蹂躙し 国事を誤まる ものは皆 我国民の 公敵ぞ 奮よ 起よ 我友よ 集よ 起よ 諸人よ 自由の旗は 靡くなり 自由の鼓 響くなり 驚天動地の 働きは 今にこそあれ 後るるな」 
この歌詞は当時の内閣総理大臣・松方正義、外相・大隈重信、内相・樺山資紀、司法相・清浦清吾。海相・西郷縦道、閣外相・黒田清隆らの名誉を棄損したというので官吏侮辱及び新聞紙条例違反として発行人と編集者二人が東京控訴院で重禁固1ケ月、罰金5円の刑の判決を受けた(明治30年7月24日)。松方内閣の在位は482日であった(明治29年9月18日から明治31年1月12日まで)。120年前の出来事だが政治の在り方は現在と一向に変わらない。新聞は今こそ「行進曲」を募集し紙面に発表すべきではないか。それこそ政治への痛烈な一撃になる。ネット時代に生きる新聞の在り方の一つだと思う。

「歌も良し俳句良きかな歌供養」悠々