銀座一丁目新聞

茶説

ミュシャ展と日本人

 牧念人 悠々

友人の荒木盛雄君に薦められて「ミュシャ展」を見に行く(6月2日・国立新美術館・会期6月5日まで)。恥ずかしながら絵画好きな私はこの画家の名前を知らなかった。パソコンで調べると、アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860年7月24日 ―1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナーとあった。多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作。イラストレーションデザイン絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。日本ではグラフィックデザイナーとして若者に人気がある。観客が60万人を超えた理由らしい。

この日、午前11時20分に美術館に着いて驚いた。すでに延々長蛇の列。美術館側の混雑防止のため敷地内を蛇のようにくねくね曲がるようにして入館者を並ばせ入口に着くよう仕向ける。この美術館に何度も足を運んでいるが初めて経験する出来事だ。蛇行行進する。

「ミュシャ展や列幾重にも炎天下」(荒木盛雄)

老若男女黙々と歩く。炎天下、男・女・老・若、差別なく公平である(心の中では美術館側に80歳以上の人、足の不自由な人に配慮をしても良いのだがと思う)。日本人の我慢強さを今更のように知る。日本人の付和雷同性にも合点する。30メートルの坂道まであって上がったり下がったり2報復して35分。やっと館内に入る。さらに並ぶこと10分やっと切符を切ってもらった。

彼の経歴はパソコンによると。オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェ生まれ。中学校時代、合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。中学校を中退、19歳の時、ウィーンの舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校で学ぶ。さらに、ミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。彼の出世作は1895年(明治28年)、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターとか。

話題のスラブ叙事詩「原故郷のスラブ民族」(「トゥーラニア族の鞭とゴート族の剣の間に」1912年610×810cm)など20点をみる。

「原故郷スラブの民は龍天に」(荒木盛雄)

いずれも6メートル×8メートル。あるいは4メートル×4メートル80の大作ぞろいである。圧倒される。1911年(明治44年)、ミュシャはプラハ近郊のズビロフ城にアトリエを借り、晩年の約16年間を捧げた壮大なプロジェクト「スラヴ叙事詩」に取り組む。彼は、自由と独立を求める闘いを続ける中で、スラヴ諸国の国民をひとつにするため、チェコとスラヴ民族の歴史から主題を得た壮大な絵画の連作を作り上げる。 1928年には、19点がプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で公開される。若い世代からは、保守的な伝統主義の産物だとのレッテルを貼られたという。若者には言わしておけばよい。私は「ロシアの農奴制廃止―自由な労働は国家の基礎」(1914年・610×810cm)の名作にミュシャの深い思いを感ずる。ネギ坊主を尖塔に持つ教会の広場に歓喜に沸く群衆が集う絵柄である。トルストイも小説「復活」(新潮文庫・訳木村浩)の中で「農民の隷属のもとで経営が成り立ち…それが不正で過酷であることも知っていた」と書く。ミュシャは被支配民族も農奴と同じ思いであったと言いたかったのであろう。ロシアの農奴制廃止は1861年のこと。チッコはまだオーストリアの支配下であった(1620年から1918年までチェッコはオーストリアの統治下)。

「農奴解放遥かに霞むクレムリン」(荒木盛雄)

民族独立への戦い、弾圧、葛藤、怨念は「連帯」「真理は打ち勝つ」「悪に悪で報いるな」などの連作の絵に表現される。「スラブ叙事詩」に対する荒木盛雄君の俳句を紹介する。

「デンマーク王禁じたる感謝祭」(「ルヤナー島でのスヴカントスヴカントヴィート祭」神神が戦いにある時、救済は芸術の中にある)
「清和なる売春宿を取り壊す」(「クロムニェジーシュノヤン・ミリーチ」娼館を修道院に改装する)
「国土荒れスラブの叫びはたた神」(「ヴィートコフ山の戦いの後」神は力でなく真理を体現する)
「復讐を諫むる司祭花は葉に」(ヴィドニャヌイ近郊のベトル・ヘルチッキー」悪に悪で報いるな)
「双手挙げスラブの賛歌風光る」(「スラブ民族の賛歌」スラブ民族は人類のために)

ミュシャには「クオ・ヴァディス」(1904年237.5×218.5cm・油彩)がある。当時オーストリアなどの圧政に苦しんだポーランドの作家エンリケ・シェンケヴィッチの名作から題材をとったものだ。「何処に行き給う」。亡国の民ならずとも現代人は絶えず行き場を失う。思えば同じ民族の21歳年下のドヴオルザークは交響曲「新世界」を、24歳年下のスメタナは交響詩「モルダウ」(「我が祖国」より」をそれぞれ作った。芸術は圧政の中から生まれる。独立を求める民族の魂が凝縮されたものと言えよう。約1時間の苦行の結果、得たものはそれより大きかったのは嬉しいことであった。