銀座一丁目新聞

安全地帯(539)

川井孝輔

ギブアップした「大山詣で」

毎日新聞の「旅する」(3月19日)に、丹沢山系大山に付いての記事が載っていた。ピラミッド形の山容が相模平野のどこからでも見え、神奈川県民に親しまれている大山(標高1252m)。2015年には阿夫利神社からの眺望が、フランスの旅行ガイド「ミシュラン」に「二つ星」として紹介され、昨年4月には往時江戸の人々が山頂を目指した「大山詣で」が、文化庁による日本遺産に認定された由。気軽に訪れて、自然と歴史が体感できる大山を、記者も訪ねたとあった。そして2015年にリニューアルされたケーブルカーを利用すると、山頂駅まで僅か6分。山頂駅(標高700)の阿夫利神社駅前で降りると「大山阿夫利神社下社」は直ぐ其処に在る。「神社本社」は山頂に在って徒歩になる。江戸時代から庶民信仰の山として人気を集め、「大山講」を組織し、当時100万と言われたて江戸の各地から、年間20万人もが訪れる巨大観光地だった事などを説いている。続く30日の同新聞には「ふるさとの山々」として、大山の別名「阿夫利山」「雨降山」を紹介し、家族連れに人気であることが披露してある。そしてケーブルカーの中間駅に在る「大山寺」は、東大寺を開いた良弁僧正の開山したものだとの説明と、「ガイドの目」として参考所要タイムと、老若男女を問わず多くの登山客でにぎわうとの案内があった。蛇足乍ら「ミシュラン」とはフランスで、著名な料理店の格付けをする会社と承知して居たのだが、ブリッジストンと並ぶ世界的タイヤメーカーであり、旅行ガイドの格付けをするとは、知らなかった。

【1】


偶々佐伯泰英の時代小説に嵌っていて、「居眠り磐音江戸双紙」51巻を読み終えていたが、その第6巻「雨降ノ山」では磐音が世話になる、江戸両替商600軒を束ねる両替屋行事・今津吉右衛門の妻女お艶を背負って、大山詣でをする場面が語られてあるのだ。神奈川県民ならずとも、一度は山頂からの展望を堪能したいとは、誰しもが思う事だと思う。それだけにこの際に是非と、天気予報を見ながらその機会を窺っていたのである。幸いチャンス到来して、5月11日の一番バスで出発した。千代田線・小田急線を乗り継ぐと南柏駅から約2時間で伊勢原駅に着く。さらにバスで約20分程を走るとケーブル・バス停に到達する。其処が「大山詣で」の起点である。目の前に由緒ありげな「洗心」【1】と刻まれた石碑が在った。心を清めて、参拝せよと云うことであろう。心に銘じる。

こま参道
「大山こま」として名が売れている処からの命名と、入り口の標識【2】に記してある。予習した案内書に、ケーブル乗り場迄の「こま参道」は、400階段を登るとあったので恐れをなして居たが、意外に緩やかな勾配で踏み面が結構の長さで、段差も15㎝有るか無しか、手頃であった。お陰で稍々余裕を持って、両側の商店街を覗きながら登ることが出来た。丹沢山系からの良質な水の流れる大山は、豆腐料理も名物として知られ、その専門店【3】は中々の構えである。今一つの名物、大山こまについては、そのノミ捌きが見られるかと期待して居た。残念なことに、ただ一軒しか見当たらなかったその店【4】も休業状態で、「こま」だけが不思議に回転して居るだけであった。

【5】

ケーブルカー
参道の商店街を通リ抜けると、ケーブル乗り場があって、阿夫利神社の下社迄はケーブルカーが利用できる。1931年の開通というから我々の年齢に近いが、戦時中の故か、不要不急と言われて20年程の休止期間が有り、1965に再開された由。2年ほど前から、緑のモダンで瀟洒な新型車両を取り入れたとの事だが、なるほど見た目にも初々しい感じの車体は、好感が持てる。最急こう配25度、延長800mを走る【5】。日本一短いケーブルかと思ったが、最近のテレビを見ると、四国の「大歩危・小歩危」の在る祖谷には、ホテルに降りる専用ケーブルが有る。
どうやらこれが最短のケーブルだろう。それは其れとして此処のケーブルには、「大山寺駅」なる中間駅が有って、大山寺には此処から行く事が出来る。

阿夫利神社・大山寺の由来
「大山寺縁起絵巻」によると相模国の国司であった太郎太夫時忠は、子供に恵まれないので如意輪観音像を作って祈顔した処、幸い男の子を恵まれた。ところが湯浴みの最中に、金色の鷲に連れ去られて仕舞う。その子は奈良の覚明という僧に引き取られ「金鷲童子」と名付けられた。童子は出家して「良弁」を名乗ったが、聖武天皇に認められて東大寺別当に昇進し、「華厳宗」を確立した。この話を伝え聞いた時忠が、奈良にて再会することになったという。その良弁が一時相模国に帰国した時、大山の山頂で不動明王の石像を発見し、大山寺が開山されたと云う伝説が有る。元来大山の別名を、「阿夫利山」とも「雨降(あふ)り山」とも言われ、農民の信仰を集めて居たが、江戸時代から大山御師の布教活動により、「大山講」が組織化され庶民の大山詣でが盛んになった。特に大山の山頂には特異な巨岩が在り、石尊大権現として山岳信仰の中心となり、頂上の阿夫利神社本社・山腹の大山寺が一体となり江戸時代の信仰対象として、幕府の庇護も受けていた。処が維新後の明治元年3月、神仏分離令と廃仏毀釈の運動により、大山寺は取り壊しとなりその跡地に今の阿夫利神社下社が建立されたと云う。そして明治18年になって、大山寺が現在地に再建されたという。宗教界にも色々と紆余曲折があったものだ。

大山寺
中間駅を降りて大山寺に向かう。途中「東京大空襲の悲惨」【6】の碑文を読む。2時間半で首都東京を焦土化した東京大空襲。姉と甥を亡くしながら、プールに身を浸して奇跡的に助かった人の寄進に依るとある。当時座間に在って安穏に過ごした身としては胸が痛む。【7】は大山寺の本堂だが、中ではシャッターが切れないので、堂の外側から撮って見た。本堂横の立派な「青銅宝篋印塔」【8】を拝む。普通は石造りの筈が、滅多に見る事の無い堂々たる青銅製で、総高さ三丈五尺四寸とあるから11mに近い。案内板を読むと、参拝の善男善女は、この天下無双の霊塔の前に虔(つつしむ)んで礼拝し、塔の回りを右に三遍お廻り下さいとある。其れによる功徳も列記してあるが、よほど霊験あらたかなのだろう。その脇には湧き水らしい池があり、悠々と緋鯉の泳ぐ姿が見られ【9】、心癒される。奥には羅漢さんの8像が並んで居た。【10】は十一面観音様で安政大火の際、一山の堂社並びに二百余戸が灰燼に帰した。木像の観音像は、焼け焦げにされながらも、住民が守護されたことから「火難身代わり」観音様として、当初の姿に建立されたものだと云う。【11】は大山寺とケーブル中間駅間の参詣路になるが、信者による寄進の石柱がずらり並んでいる。森の中の参道は新緑の中を縫って居り、偶々際立つ紅葉【12】が美しく眼に入って、充分な保養になった。

阿夫利神社
再びケーブルに乗って頂上駅に降りると、すぐ其処に阿夫利神社下社【13】が在った。落ち着いた風格の在る構えである。参拝を済ませて御朱印を戴く。大山寺・日向薬師でも戴いたが、下社の分をスキャンしてみた【14】。何れの御朱印もそうだが、筆跡の雄渾達筆な事には何時もながら、感心させられる。「ミシュラン」に紹介される迄もなく、ここまで登って来ると展望は開けるのだが、今日は折角の好天気も靄が懸かったようで遠望が確かでない。江の島から相模湾の美しい眺望が観られる筈だったが、伊勢原市止まりのようだ【15】。【16】は境内に建つ「獅子山」である。曾って大山講で賑わった頃から、燈籠・狛犬等と共に名工による親子獅子像もあったというが、関東大震災の山津波により殆どが損壊流失してしまった由だ。随分と空白期間が続いたわけだが、平成24年5月の「皇太子殿下大山御登拝」を記念して再建の気運が沸き上がった。富士山の石で山を築き、頂上に親獅子・中腹に子獅子を配し、「大山獅子」として25年正月にお披露目したとある。山の高さ約3m、親獅子の重さは約700㎏もある由。同じ境内に天満宮があるのも驚きだが、その脇に「大天狗の碑」が在るのも奇異に思えた【17】。天満宮は言わずもがなだが、大天狗とは数々存在する天狗の中でも、神通力を持つと言われる天狗の事で信仰の対象にもなったらしい。「日本八天狗」[愛宕山太郎坊・鞍馬山僧正坊・比良山次郎坊・飯綱三郎・相模大山伯耆坊・大峰前鬼坊・白峰相模坊・彦山豊前坊]と呼称される中に、此処の「相模大山伯耆坊」も居る。もともとは、鳥取の伯耆大山に住んで居たが、相模大山に居た「相模坊」が、四国の白峰に移った為、その後任として相模大山に来たとの伝説である。天満宮と大天狗碑を過ぎると、本社に通じる門構えの入り口が現れる。此処から頂上までが、参道と云う事になるのだろう。参門に当たる入り口【18】は、邸宅の門構えにも見えたが、上には鳥居が載せられて有り、やはり参門と言うべきだろうか。

頂上の本社に向かう
さてこれからが本番で、阿夫利神社本社に向かうのだが、左右二つのルートが有って当初は迷った。下社から見晴台を経て行く道と、通常のルートが有るのだが、見晴台の名前に惹かれてそちらに向かった。だが聞いてみると、此のルートには途中に鎖道が有って崖の伝い歩きをせねばならないから、老人には無理だろうとの事で断念。通常ルートを選ぶことにしたものだ。参門をくぐると直ぐに可成り急な階段【19】がある。登り切って歩き初めると、山道の普通でないのに気付いた。予想してきた山道とはかなり異なり、荒々しい山道【20】・【21】に変貌している。実の処、多少の違いはあるにしても大部分は、普通の坂道の積りでいたのだ。杖を頼りにすれば、トボトボの姿ではあろうが、歩は確実に進められるものと、独り合点していたのだが……。此処の参道は全く自然の儘で、処どころ階段らしき部分は在るものの、転石をそのまま並べたに過ぎず、大概は転石も放置したままで、場所を選びながら、よいしょ・よいしょと、掛け声が要る始末。どうやら「老若男女に人気の……」の文言を軽く見て来たようだ。階段で言えば「蹴上げ」に相当する所が50cm程にもなる箇所があり、杖ならぬ樹の根にしがみついて漸く、と言った具合でこれには参った。それでも壱丁目毎に立つ石碑が励みになる。参門から頂上まで28丁と云うので、其れを睨みながら休みやすみ登った。気楽に登る積りが、途中では展望も儘ならず、無言の行よろしく黙々と歩を進めるが、何とも山道に転がる大きな石が気に入らない。漸く十丁目を過ぎた頃展望が開けた。大休止をしながら遠景【22】を堪能する。相変わらず靄がかりだが、流石の眺望でこれには満足できた。十二丁目の石碑【23】を越えるころになるとかなり疲れが出て来た。脚が硬直するようであり、転石を超えるのにうっかりすると転びそうにもなる。杖を頼りに注意を怠らず、喘ぎながら進む。数百年は経たであろう、がっしりした構えの夫婦杉【24】が有った。又珍しい「天狗の鼻突き岩」【25】も目に入る。目の様に見える穴は天狗が、鼻を突いてできたものだと、書いてある。漸く十六丁目に着くと立派な石碑が建っていた。「十六丁目追分の碑」【26】である。本ルートと蓑毛方面との分岐点を示すものだが、案内板によると、1716年に麓から強力の手で担ぎ上げられたとあり、江戸期の大山信仰の深さを現わしている、と書かれてある。それにしても、下社境内にあった獅子山天辺の親獅子は、夫々600~700kg重さの為、ヘリコプターで運んだと云うが、其れ以上に重い高さ3.68mの堂々たるこの石柱を、良くもここまで運んだものだと驚嘆の他はない。尚、石碑の面には「奉献 石尊大権現 大天狗 小天狗 御宝寺」の刻字が見えるらしいが気が付かなかった。大山は天狗に縁があるようだ。頂上を極めたグループが降りて来るので聞くと、参道はこのままの状況で、頂上まで変わりない由。意外と降りの方が、脚に響くものだ。年齢を考えて無理をするのはどうだろうか……。と考え、結局此処でギブアップすることにした。残念なことだが、せめて十六丁目のこの場所迄来たことをもって、良しとしよう。