銀座一丁目新聞

花ある風景(633)

牧内 節男

「滅私奉公」という事

「滅私奉公」という言葉が気になって仕方がない。戦後いつのころからかあまり使われなくなった。言葉に罪はない。大正に生まれ、大東亜戦争を軍国少年として過ごした私には人間としての生き方としては当たり前に思える。この言葉とともに「かくばかりみにくき国となりたれば捧げし人のただに惜しまる」(戦争未亡人の作)の歌がもっともだと感じる。軍国主義の批判と民主主義をはき違えて我利我利亡者が多くなった世相を嘆かざるを得ない。滅私奉公は文字通り私を滅ぼして公に尽くす意味である。日本ではその痕跡が明らかなのは、JR島本駅ロータリーの横にある「桜井駅跡史跡公園」(約4415m2の面積)にある『滅私奉公』の碑である。その碑の台座の上に「楠公父子子別れの石像」がる。「滅私奉公」の題字は内閣総理大臣・近衛文麿の揮毫である。延元元年(1336年)4月九州で勢いを盛り返した足利尊氏は光厳上皇の院宣を得て東上、5月25日湊川合戦で楠正成は戦死する。桜井の正成・正行父子の別れはその途次の出来事だ。正成は兵庫に出でて迎え撃てという勅命を受け、死を覚悟して出陣した。正行に諭て言う。「いやしくもわが族隷(一族と家来)にして和人の存するあらばすなわちひきいて金剛山の旧祉を護り身を以て国に殉じ死有て他なかれ。なんじのわれにむくゆるゆえん。これより大なるはなし」。軍歌「大楠公」4番には次のように言う。「いましを此処より帰さんは われ、わたしのためならず 己れ、討死なさんには 世は尊氏の、ままならん はやく生い立ち、大君に 仕えまつれよ国のため」(歌詞・落合直文、作曲・奥山朝恭・明治32年6月作)。

私は「滅私奉公」を折に触れて使うつもりである。今年5月12日のブログ「銀座展望台」に次のように書いた。『14日(日曜日)は「母の日」。私の母は昭和23年11月23日に亡くなった。享年60歳であった。男ばかり7人兄弟であったので苦労をしたと思う。
私は母が37歳の時の子で、生まれた際、産婆さんが「この子は毛深いから情け深い子供になりますよ」といったことをよく聞かされた。「他人に親切である」と、よく言われる。悪い性格ではない。二人の子供がいるが、長女はすでに65歳、長男は62歳。いつも「母の日」には電話をかけてくる。「父の日」(6月18日)は完全無視である。「滅私奉公、家庭を顧みず働いた報い」であるから仕方ないと私はあきらめている。「母の日」「父の日」にその家庭の在り方がそれぞれにあらわれる。また両親の呼び方も様々らしい。我が家はおやじとおふくろと子供から呼ばれる』

月刊誌「かまくら春秋」平成29年5月号(NO565)はこんな皮肉な使い方をしていた。川村二郎の言語道断という連載「忖度するのは損か得か」という見出しのエッセーの中で森友学園問題に触れ『この騒ぎで気の毒なのは「首相夫人付き」という妙な肩書木の名刺を持たされ滅私奉公した(と想像される)ノン・キャリアの女性である』

今年の4月15日、心温まる出来事があった。午前9時10分ごろ川崎市川崎区池田1の京浜急行八丁畷駅に隣接する踏切で75歳の男性が遮断機をくぐって線路に立ち入ったのを横浜銀行の児玉征史さん(52)が助けようとして二人とも電車にはねられ死亡した。
危険にさらされている人を見逃せない。自分も危険と承知しながら救出に向かう。当たり前のことだがこれがなかなか実行できない。多くの場合、人は行動を起こさない。自分の身を捨てて他人を助けるのが「滅私奉公」である。児玉さんは昭和40年生まれの人である。経歴は 追浜・辻堂の支店長を務め、川崎支店上席副支店長兼川崎ブロック営業本部事務局長をへて2015年8月から人財部主任人事役であった。

欧米諸国では公に対する忠誠や献身的精神は究極の愛の形として高く評価されている。これをノープレス・オブリージェという。「高い身分にはそれ相応の義務が伴う」という言葉だが転じて上に立つ人はそれなりの倫理や社会的責任が求められる」という。わかりやすく言えば人に恥じない行為を率先して行う意味である。別に滅私奉公を強調するつもりはない。企業内での滅私奉公は自発的になされるべきもので決して強要すべきものではない。仕事によっては過労、サービス残業、休日出勤、有給休暇の未消化といった“労働問題"起こす原因ともなっている。だが「ノープレス・オブリージェ」精神から言えば仕事に死を賭するものもある。それを行うかどうかはその人自身に属するといっておきたい。