銀座一丁目新聞

安全地帯(537)

相模 太郎

鎌倉北条探題の最後

最初にお断りしておきますが小生は日本中世史に興味を持ち、旅行好きと、幸い鎌倉に在住なので、関連する史実を史書に基づいて日本全国現地踏査し、実見するのを趣味とし、厚かましくもその体験をもとに書いております。なにぶんにも素人の悲しさ、当然異論や誤りが続出と思いますがご容赦ください。

正慶2年(南朝元弘3年1333)5月22日、源頼朝より実朝の死後、北条氏が引き継いだ鎌倉幕府は、一世紀半、執権の第16代守時、得宗として君臨した高時を最後に鎌倉東勝寺で滅亡した。ここで取り残された地方の幕府出張所であった六波羅探題・鎮西探題・長門探題の最後について説明する。

元寇の際、挙国一致かろうじて撃退した文永・弘安の役に防衛に当たった武士たちへの恩賞(勝っても与える土地がない)の不平不満、戦費で北条幕府は疲弊し政権も末期的症状を呈し、日本各地で反乱が勃発した。まず、最大の六波羅探題(南方は北条時益、北方は北条仲時28才)は京都市東山区にある六波羅密寺の近く、かつて権勢をふるった平家の館跡のあたりにあった。要職で将来有望な一門のものが選ばれ、幕府の指揮下、朝廷の監視、治安維持、西国武士のトラブルの解消等の任にあたっていた。この機に乗じ、後醍醐天皇の倒幕運動が起こり、それに同調した足利高氏(まだ尊氏ではない)、新田義貞などを筆頭に不満分子がこぞって宣旨をいただき各所で一斉に蜂起した。正慶2年(1333)5月7日、今まで信頼していた源家の筆頭、足利高氏・直義兄弟の急襲を受け、防戦むなしく、一同、急遽鎌倉へ向かって脱出した。5月9日、無情、中山道近江の番場(ばんば)宿まで来たところ、地元のバサラで有名な佐々木道誉の裏切りにより前途を絶たれ、今やこれまでと当地の古刹蓮華寺(米原駅よりタクシーで約20分)に入り残った一族郎党432人が自刃、壮絶な最期を遂げた。本堂横を入ると苔むす大小数百基の五輪塔がびっしりと寄り添うように並んでいる。合掌し、たたずんだ小生には、はるか鎌倉に望郷と無念の霊気がヒシヒシと感ぜられた。本堂裏の展示室には当時の過去帳が展示してあり、苗字が、今も地名として残る東国武士の名前がずらりとならんでいる。惨状を伝える太平記第九巻「都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りたりける、血はその身を侵してあたかも黄河の流れの如く也、死骸は庭に充満し、屠所の肉に異ならず」。幕府に探題自決の悲報が伝わった18日は、新田義貞が決起して怒涛の如く南下侵攻して鎌倉総攻撃に入った日であった。鎌倉でわが子仲時の自決の急報を聞いていた父の基時は、22日東勝寺で一門自刃の際、「待てしばし 死出の山辺の旅の道 同じく越えて 浮世語らん」との辞世を残し従容と死についた。坂東武者の面目躍如であった。ちなみに現在も、蓮華寺のある番場宿は街道筋の面影を色濃く残していて、長谷川伸原作「瞼の母」の主役、ヤクザになった番場の忠太郎が、やっと会えた母につれなくされるという物語で、生まれ故郷の近江の番場がこの宿場で、寺には忠太郎地蔵もあり、今はこの方が有名かも知れない。

鎌倉で高時一行が自害し、滅亡した3日後の5月25日には元寇で衝撃を受けた北辺の警護、九州御家人の軍事・内政両面の統制にあたっていた鎮西探題(現在福岡市西区の愛宕山とか、博多区祇園山笠の櫛田神社周辺とかの比定説あり)北条英時が九州の有力御家人大友貞宗と少弐貞経(先祖は頼朝より土地を与えられた関東の下り衆)・島津貞久等の謀反により攻撃され、英時は居城鷲尾城(福岡市愛宕山)にたてこもり、郎党240名とともに火を放って自刃した。英時の兄は最後の執権守時(足利高氏の妹を妻に持つ鎌倉防衛の最前線、現在の大船地区で壮絶な戦死)であった。皮肉にもすでに護良親王の討幕の令旨を受けていた肥後(熊本)の菊池武時一族がひと月前、探題攻撃をしかけ、返り討ちに遭い、大損害を受けて敗北した時は、大友‣少弐・島津は探題側の守りとして菊池を迎え討っていたのだった。最近地下鉄工事の折、当時の菊池勢と思われる頭骨が百個ほど出土して話題になったそうである。独立した小丘の愛宕山にある愛宕神社へ登り、遥か東方の町並みを見渡し当時を回想し、望郷の念堪えがたき英時の無念、察するに余りあるもがあったろう。英時は、九州三条派の和歌界の中心でもあり、文武両道の武士であったという。なお、愛宕山は英時の居城前、探題の前身鎮西談議所が置かれていたといわれる要衝であった。

長門探題は文永11年(1274)10月の第1次元寇により北九州は壊滅的打撃を受けた反省に、翌々年建治2年(1276)専ら蒙古襲来に対処するため下関付近に置いた探題であった。幕府はこの年も備後、安芸、周防、長門の御家人に命じて、まだ北九州沿岸に石塁の構築を命じている記録がある。正慶2年(南朝元弘3年1333)5月、九州御家人の反旗により鎮西探題が攻撃されているとの報に接し、時の長門探題北条時直(金沢文庫創立の実時の孫)は急遽救援に向かったが、途次、鎮西探題落城の報を聞きやむなく一行50余人は降伏した。

各探題滅亡の状況を日付で見れば次の通りである。
5月 7日~ 9日   六波羅探題滅亡(京都)
5月18日~22日  鎌倉幕府滅亡(鎌倉)
5月25日      鎮西探題滅亡(博多)
5月25日以後    長門探題降伏(長門)

後醍醐天皇の綸旨を受け「建武の中興」につながる不平御家人一党の日本各所の反乱が、時を同じくして北条氏打倒を同月に一斉蜂起したのは、かつて源氏一族が以仁王(もちひとおう)の令旨を受け各所で平家打倒に一斉に蜂起したこと、近代になって「明治維新」錦旗を掲げ薩摩、長州を始めとする西軍が徳川幕府を打倒したこと、当時の情報網のすごさは、驚嘆に与えする。歴史の輪廻(りんね)、諸行無常である。


中山道番場宿

番場宿蓮華寺

六波羅探題一行の墓所

福岡市愛宕山

愛宕神社

下関より関門海峡

(いずれも筆者撮影)
(参考文献)鎌倉北条一族  奥富敬之著  新人物往来社
      史料日本史  笠原一男、安田元久著  山川出版社
      博多歴史散歩 白石一郎  創元社
      元寇物語  田中政喜  青雲書房