追悼録(632)
民主主義と石橋湛山の先見性
民主主義とは難しいものだと思っていた。難しいというのは多数意見によってつまらない案が出てきたり大衆にこびる政治家が選ばれたりするからである。ともかく弊害が少なくない。鷲巣力編『加藤周一 6自選集1977-1983』(岩波書店)の中にこんな記述があった。『民主主義は「もう古い」のか。とんでもない。それはまだあまりにも新しいので、われわれ国民の胸中深く滲みこむに到らないのである。政府が外来の仏教を採用し、法隆寺を建ててから、鎌倉仏教が日本人の胸中に成り立つまでにも600年を必要とした。日本民主主義はすでにあるものではなくつくるものである』。
なるほど、戦後まだ72年に過ぎない。600年はまだまだ先である。アメリカでさえリーンカーンがゲティスバークで「人民の、人民による、人民のための政府」と演説してからまだ154年しかたっていない。日本の仏教伝来は538年、法隆寺創建は607年、いくたの名僧が出現して1253年、日蓮、法華宗を開く、道元の『正法眼蔵』もこのころ出た。日蓮は7年後に『立正安国論』を著わす。1262年、親鸞『歎異抄』を出す。1275年、一遍時宗を開く。こう見て来ると600年の間、仏教も民衆の中に入り込むには民衆への奉仕‣布教活動もあれば、時の権力者からの迫害・流刑もあった。「あるものでなく、つくるものである」という表現がよくわかる。
日本に民主主義が根づき始めるのは戦後と言ってよいであろう。戦後「民主主義」という表現が日本国民の前に最初に出てきたのは「降伏後初期の米国の隊に政策」(昭和20年8月29日進駐前に米国からマッカーサー元帥に指令)である。ここに「日本人民は、個人の自由に対する希望並びに基本的人権,特に信教,集会、言論及び出版の自由に対する尊重を増大するよう奨励される。彼らはまた、民主主義的及び代議的組織を形成するよう奨励される」とある。
敗戦直後の混乱の中、石橋湛山のみが異彩を放つ。湛山は「徹底的個人主義」からデモクラシーを唱え、大正時代末年まで大正デモクラシーの先頭に立っていた。昭和20年9月1日号の「東洋経済新報」の「社論」に次のように書いた。「昭和20年8月15日をもって発途した更生日本の前途は、洋々として希望にかがやくものであることを疑い得ない」当時このように思った日本人は極めて少ない。前途を悲観し迷い、不安がったものである。「しかもその針路を想像するに、断じて荊棘に満ちたるものでなく、坦々砥の如き大道がわが眼前に展開することを見るのである」このように言い切ったものも少なかった。「必要なのはただわが国民がみずから心眼を閉じて、その大道の眼前に存するのを見ず、求めて荊棘の邪道に踏み込まざる用意である」国民の心構えまで論じた。湛山の予言は的中した。当時湛山は『東京経済新報』の社長で61歳であった。すでに6日前の「社論」には「更生日本の門出前途は実に洋々たり」の論陣を張っている。その先見性は驚くほかない。
日本に民主主義的な考え方がなかったわけではない。天皇の”人間宣言”の年頭の詔書(昭和21年1月1日)の冒頭に引用されている明治天皇の五箇条の御誓文である。この第一条に「広く会議を輿し万機公論に決すべし」とある。昭和天皇は昭和52年の宮内庁記者クラブの会見で「人間宣言の冒頭に五箇条の御誓文を持ってきたのはあの詔書の一番の目的であった。民主主義を採用されたのは明治天皇であって日本の民主主義は決して輸入のものでないということを示す必要があった」と答えられている。
大正時代には大正デモクラシーという言葉もある。戦前から議会もあり、政党もあり、総選挙もあった。一応民意がくみ取られる仕組みがあった。だが軍国主義に色濃く染められられ、それは決して十分であったとは言えない。石橋湛山の存在は稀有と言ってよい。今も十分とは言えない。昨今は民主主義の危機さえ伝えられる。明治維新から数えてもまだ149年である。日本に民主主義が根付くのはまだ先の話である。あわてることはない。石橋湛山は昭和48年4月25日この世を去った。享年88歳であった。
(柳 路夫)