追悼録(630)
ペギー葉山と『南国土佐を後にして』
ペギー葉山が亡くなった(4月12日・享年83歳)。思わず『南国土佐を後にして』を口ずさむ。歌われたのは昭和34年である。社会部記者としてがむしゃらに働いてところである。すでに57年もたつ。何故か心に残るのか。
「南国土佐を 後にして
中支へ来てから 幾年ぞ
思い出します 故郷の友が
門出で歌った よさこい節を
”土佐の高知の ハリヤマ橋で
坊さんかんざし 買うをみた“」
何故惹かれるのかわからなかったが原曲が中国大陸中部に出兵した陸軍歩兵236連隊内で自然発生的に生まれ、歌われていたというので納得した。戦後、復員兵らによって高知県にもたらされ、古里ソングとして定着したと言う。「異国の丘」(作詞増田幸冶・作詞吉田正)がソ連抑留者の間で歌われ、戦後流行したのと同じである。歌は人を慰め、励まし明日へ生きる力を与える。人は苦しかった場所ほど故郷が恋しい。望郷の歌ほど胸を打つ。
歩兵236連隊は昭和14年,高知で編成された。その年の10月、中国へ移駐、多くの主要作戦に参加、一貫して中国で戦い、終戦を迎える。終戦地蕪湖・連隊長小柴俊男大佐(陸士28期)。上級部隊は40師団(師団長・宮川清三中将=陸士25期)で、仲間の連隊は歩兵235連隊(徳島・連隊長・堀内勝身大佐・陸士25期)と歩兵234連隊(善通寺・連隊長・西川俊元大佐・陸士30期)。南方に転進しなかったのが「名歌」が生きながらえたとすれば幸運というほかない。
作詩作曲の武政英策は原曲の歌詞にあった「中支」「露営」といった言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えたという。昭和30年頃から集団就職が盛んになり始めた。昭和34年は週刊誌ブームでもあった。この年は皇太子さま(天皇様)ご成婚の年で「空前の美智子妃ブーム」に沸いた。4月26日号の「サンデー毎日」は156万7千部を記録した。時の「サンデー毎日」の編集長は社会部育ちの中山善三であった。当時週刊誌の毎週の総発行部数は1200万部、前年の倍に増えた。いまや週刊誌は「文芸春秋」を除いて見る影もない。時代の変転は激しい。あなたの耳にはあの「よさこい節」が入りますか…ベギー葉山のご冥福を心からお祈りする。
国の父さん 室戸の沖で
鯨釣ったと 言うたより
私も負けずに 励んだ後に
歌う土佐の よさこい節を
“言うたち いかんちゃ
おらんくの池にゃ
潮吹く魚が 泳ぎよる
よさこいよさこい“
(柳 路夫)