銀座一丁目新聞

追悼録(629)

「みはた会」の石松勝さん逝く

恒例の「みはた会」が開かれた(4月3日・東京・アルカデア市ヶ谷)。幹事の石松勝さんが1月22日急逝されたので会は自然と石松さんを偲ぶ会になった(享年96歳)。石松さんがなくなったのを知ったのは幹事代行の伊室一義さん(陸士61期)からの手紙であった(3月13日)。その手紙によれば、我々の手元に1月27日に届いた「みはた会」の案内状はあらかじめ伊室さんが書き、石松さんにおくったものを長男の肇さんが名簿を見て出されたものであった。この案内状には伊室さんが苦労して撮影した「マッキンレー山(6190m)」の写真が印刷されていた。この山では探検家の植村直己さんが遭難している。一瞬取り替えようと思ったがそのままにしていたところ石松さんの訃報を知る破目になったという。この日、出席者は8名。司会の及川光代さんが昨年7月24日NHK BS1スペシャル「原爆救援」の番組に出演した石松さんのDVDを配布、みんなに見せる。石松さんはその前の年には孫を連れて廣島を訪問している。終戦の年、広島から20数キロ離れ原村演習場に駐屯していた321連隊の石松さんらは原爆が落とされた翌日から一週間、遺体の処理に当たった。その数2000余。全員が原爆手帳を持つ。テレビで石松さんは「子供や孫たちに被爆の影響が出るのではないかと心配している」と語っていた。及川さんは前日石松さんと電話で話をしておりさして異変は感じなかった。死に顔はとても綺麗であったという。また石松夫人が70歳を過ぎて「主人と一緒になってよかった」と言っていたという話をする。このことを小川美子さんも聞いていたらしくうなずく。夫人にこのように言われる石松さんはまことに良い旦那さんである。私など恥じ入るばかりである。森田康介さん(後藤四郎さんの甥‣防大2期)と夫人淑子さん。「うちは喧嘩ばかり」と言う。喧嘩をするのは仲がいい証拠であると私は思う。淑子さんから全員「もなか」をいただく。私は「我慢。かかあ天下が家庭円満の秘訣」と語る。321連隊の連隊長後藤四郎さん(陸士41期)がなくなって12年、いまだに「みはた会」が続いているのは石松さんのお蔭である。それはひとえに石松さんの人柄による。戦前、天皇陛下から歩兵連隊に下された軍旗は360。敗戦に当たり軍旗奉焼命令が出た。全歩兵連隊が軍旗を奉焼した。ところが321連隊の後藤連隊長だけが「解体する日本陸軍の形見として、この軍旗を秘匿して守り抜こう。過去十数年の戦場生活でもいくたびか死にさらされたこの命、軍旗もろとも自決を考えたが、命を懸けて軍旗を秘匿しよう」と決意した。此処が“ヘンコツ隊長“たる所以である(陸軍ヘンコツ隊長物語・毎日新聞刊)。奉焼式は形だけにして、密かに連隊の軍旗旗手石松少尉(旧姓は有吉)に命じ、友清歓真師が開いた周防の石城山の日本神社社殿に秘匿した。軍旗は2年間、日本神社が預かり、後は長崎の後藤さんの自宅に隠された。この経緯を見る限り石松さんと後藤さんは一蓮托生であった。死生を一事に賭けた同志でもあった。それが「みはた会」が56回も続いたわけである。今年もまた横須が防衛協会会長・防大協力会副会長小山満之助さん(陸士60期)が防大の卒業生の話をする。利島雄之助さんとは集合場所の靖国会館で雑談を交わした。意外にも毎日新聞外信部にいた伊藤光彦君と知り合いと分かった。私は伊藤君の長女の名付け親である。利島さんが出版した「音読・孫子」をいただいた。

最期に会を継続するかどうの話になった。「一期一会」「得難いきずなを大事にしたい」と意見が一致、来年も4月3日に開く。

(柳 路夫)