銀座一丁目新聞

花ある風景(628)

並木 徹

「夜更けて水汲む音や秋近し」長沢義忠

去る日、友人の霜田昭治君とともに宮島瑞穂さん(昭和女子大講師)と会う(3月28日)。1年ぶりの再会だ。昨年3月27日、瑞穂さんの姉・長沢真澄さんの「ハープ演奏会」のあと、亡くなった父親の長沢義忠さんの芝中学時代の同級生も交えてお茶を飲んだ。その時はご主人宮島英昭さん(早稲田大学商学学術院教授)も一緒で、話は芝中時代の想い出から日本経済にまで及び、楽しいひと時を過ごした。この演奏会の記事(平成28年4月1日号「花ある風景」)の中で私は「カンツォーネ ハープにのりて 花ひらく」(悠々)と詠んだ。一緒だった荒木盛雄君も3句を披露した。

「佐保姫やハープ抱きてアルペジオ」
「ぼろろんと弦をすべりて春の水」
「春の海凪か怒涛かハープの音」

そのことを覚えておられたのだろう。亡くなった父親の俳句をまとめた「句集」をいただいた。小学校6年の時から昭和44年までの俳句138句(ほかに富士子夫人の10句)がおさめられている。私の心に響いた俳句をあれこれ取り上げてみたい。

「さくさくと雪を踏んでゆく朝の道」(昭和14年。小学校6年生の作)
俳句をたしなんでおられた父親の影響であろう。素直な句である。同期生川口久君が中学1年生の句「ハンカチ包みあまりし防風かな」を思い出した。

「嵐来て雀飛入る大樹かな」
「夕立のしづく垂れり大銀杏」(昭和18年・京都・東京高校1年生)

長沢さんは昭和18年4月,四修で東京高校に入学。この年、霜田君とともに埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に入学する。当時の記録を見ると同区隊の者がこんな句をしたためている。「枯野原軽機かづきてアゴを出て」「擲弾筒三十ミリや冬の空」(小出行正)。

「ざり蟹のひげ春風に吹かれけり」(昭和19年、東京高校2年生)蟹の句は
「夕凪やささ蟹群れる紀伊の浜」(昭和29年夏)もある。

忠義さんは根が優しい人のようである。常に弱きもの味方である。俳句にはこの優しさがいる。万葉集にも蟹を痛む歌がある。

「夜更けて水汲む音や秋近し」(終戦)

敗戦を迎え、極めて冷静である。句からは高僧の趣さへ感じさせる。含蓄のある素晴らしい句だと思う。時に17歳。俳人・久保田万太郎さへ終戦の際「何もかもあつけらかん西日中」と詠んでいる。8月20日になって落ち着いたと見えて「涼しき灯すずしけれども哀しき灯」と詠う。霜田君とともに陸士59期の歩兵科の士官候補生は西富士で野営演習中であった。3個中隊12個区隊全員(540名)が演習隊本部前で終戦の詔勅を聞く。「股肱の臣」は泣くばかりであった。一人の同期生は歌を詠む。「白雲もい行きはばかる富士の嶺今日の雲居はいかにますらむ」(永井五郎)

「越後路は峯に雪置く田草取り」(昭和29年夏)

長沢さんは昭和24年、東大法学部を卒業、通産省に入省された。この頃、私は社会部デスクから夕刊用の写真説明を書かされて四苦八苦。7,8回書き直された後やっとパスした。デスク曰く「俳句はいい勉強になるよ」。それから俳句の本を買い込んだが俳句は作らず読むだけであった。作るのはそれから40年後である。長沢さんの文才が羨ましい。長沢さんは昭和32年4月富士子夫人と結婚。その際の歌。

「式場のほとぼりさめず暮れ残る海に向かいて二人黙せり」
(富士子さんの句「会えばすぐ蝶絡み合う夏野かな」)
「雨の中つつじの紅や異人館」(グロバー邸・昭和36年夏・九州出張)
「雑木林みな樹氷して朝閑か」(昭和39年・オランダ着任・冬)
「春の月御寺に黄金のマリヤ像」
「行く人のみな美しき夕月夜」(昭和40年イタリヤ・ミラノ・春)
長沢さんは昭和38年から4年間、オランダ大使館一等書記官であった。帰国後、大阪万博の仕事につく(万博の期間昭和45年3月から9月)。実績を残されたと聞く。だが帰朝後は体調がすぐれなかったようである(昭和42年)。「不眠症」と題してこんな歌が残されている。

「暁と鶏鳴けどわが心奈落に沈み憂いいや増す」

句集の最後の句は「吾もまた痴人か夏の草を見る」(昭和44年夏・病院で)である。前年の夏の作品「蝉の声細りて夕べの霧流る」を見てもこの頃の句が暗い。「うつせみの命」と言う。蝉は鳴き始めてから一週間か二週間ぐらいでこの世を去るといわれる。長沢さんは昭和45年12月9日亡くなられた。享年44歳であった。

メールで頂いた瑞穂さんの記憶にある「1970年の夏」は「日帰り出張を可能にした新幹線のお蔭で、国会答弁の為の資料作成と大阪万博のVIP接待で休みなく働き、体を壊していった父の姿と、家で体をやすめている時に、クラシック好きな父が、水前寺清子の『365歩のマーチ』を聴いている姿です」というものであった。