銀座一丁目新聞

茶説

五輪の会、楽しく、知的刺激も十分に開かれる

 牧念人 悠々

同期生の集まりである「五輪の会」は不思議な会合である。いつも定員の30名が出席し、その中に新顔が飛び入りする。しかも北海道からも参加する者が出るとは驚きである。配布される資料が充実している。霜田昭治君ら幹事の心配りには感謝のほかない。東京の桜開花宣言が出された数日後に開かれた「五輪の会」(3月22日・大船・千馬中華料理店)は安田新一君の司会で進む。北海道から駆け付けた野俣明君が乾杯の音頭を取る。東京に所用で上京、この会があると知って亡くなった区隊長の息子さんの大村政義さんを誘って参加する。何事にも積極的な野俣君である。梶川和男君が59期生の大まかな現況を報告する。3000名いた同期生も今や700名となる。雑誌『偕行』購読者は680名。5月15日に開く全国大会には100名位を見込んでいるという。次いで佐藤九州男君が先に沖縄、サイパンの慰霊の旅を終えた後の自分の気持ちを吐露する。「慰霊の旅を済ませれば心安らかに過ごせるであろうと思ったが自分の単純な慰霊行為で救われるものでないことが分かった。不戦の実現を果たすべく決意せざるを得なかった」と、約2千字に及ぶ自分の気持ちを綴った用紙を配布した。このような同期生もいると感心したが、ふと、3月の靖国神社拝殿の社頭掲示の明治天皇の御製を思い出す。御製は「ちよろづの神のみたまはとこしへにわが国民を守りますらむ」であった。

医者の河部康男君が肺炎予防の話をした後、歴史上2回の縁がある日本とマダガスカルとの話をする。1回目は日露戦争時バルチック艦隊がマダガスカル島のディエゴ・スアレス港に寄港して石炭や兵糧などの補給を求めたがマダガスカルは英国に遠慮してか協力的でなく、延々と待たされた。この間、露兵にマラリアなどの伝染病の感染者も出て厭戦気分も強くなった。この時、雑貨商を営む一人の日本人がボンベイ経由で打電しバルチック艦隊の動静を知る貴重な一報となったという。2回目は大東亜戦争の時である。昭和17年5月30日特殊潜航艇2隻(それぞれに2人が乗務)が母艦を発進、ディエゴ・スアレス湾の潜入に成功、合計4発の魚雷発射、戦艦ラミリーズ号を大破し、タンカー1隻撃沈する戦果を上げた。4人の乗員はいずれも帰らぬ人なった。平成9年5月31日湾を望む丘の上に4人の乗員、秋枝三郎海軍中佐(海兵66期・25歳)、岩瀬勝輔海軍大尉(海兵69期・21歳),竹本正己海軍特務少尉(20歳)、高田高三海軍兵曹長(25歳)の慰霊碑が建てられた。続いて霜田君が松尾敬宇海軍中佐(海兵66期)らの特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃の話をする。昭和17年5月31日と6月1日に出撃したのは3艇。中馬兼四海軍中佐(海兵66期)・大森猛特務少尉艇は湾の入り口の防潜網にスクリューがからみ敵に発見され自沈,伴勝久海軍少佐(海兵68期)・芦辺守特務少尉艇は魚雷2発を発射、湾内の敵を混乱に陥れた後、艇損傷のため母艦に帰れず湾外で沈没した。松尾中佐・都筑正雄兵曹長艇は湾内で集中爆雷攻撃を受け行動の自由を失い、二人は拳銃で頭を打ちぬいて自決した。豪州海軍は引揚げた松尾中佐ら4遺体を海軍葬の礼で弔う。シドニ―港の丘の一隅には日本海軍軍人の勇気をたたえた記念碑がある。霜田君は現地訪問の際、撮影、額縁に入れた4枚の写真をわざわざ持参、回覧した。

荒木盛雄君が古びた仙台幼年学校以来の軍歌集「雄健」を披露、「八紘一宇の歌」と「学科嫌いの歌」を歌う。みんなも口をそろえる。私は「学科嫌いの歌」は予科、本科を通じて歌ったことがない。「士官学校には落第がない」と聞いて安心して勉強しなかった。

恒例の古屋康雄君のハーモニカ演奏12曲を聴く。久しぶりに「空の神兵」を聞く。作曲は高木東六だが作詞は梅木三郎。私の毎日新聞入社時の社会部長で、本名は黒崎貞次郎である。「長崎物語」の作詞もある。後にプロ野球毎日オリオンズの球団社長になる。古屋君が配布した『三田評論』2月号に掲載された防衛大学校長・国分良成氏の「防衛大学と慶応義塾」は今の幹部自衛官を知る上で参考になった。

終わった後、幹事をふくめて7人で近くの喫茶店でコーヒーをいただく。この雑談がなかなか楽しい。大きな声では言えないが、私には今後、物を書く上でヒントになることがしばしば出て来るので貴重なひと時である。次回が楽しみである。