銀座一丁目新聞

追悼録(628)

友よ安らかに

同期生山川充夫が逝った(昨年12月23日)。昨年11月ごろご子息雅典様から父の容体が悪く、ぜひ小生の声が聞きたいとのお電話があり、病床より元気のない声の山川と話をした。慰め、励ましたがあれが最後だった。

彼とは陸軍士官学校(以下陸士と略)第59期生として同じ区隊(クラス)で起居をともにした堅い絆の同期生で、戦後も役人になり岐阜県内を視察中崖から転落事故で早世されたご長男の東大受験(東大紛争でやむなく京大合格)の際お世話してあげて感謝され、同期生会には必ず出席した仲間であった。彼の母校は岐阜県郡上農林学校であった。生家高鷲村(現岐阜県郡上市高鷲町)は山深い越美南線(現在長良川鉄道)郡上八幡駅よりさらに30キロも山奥とのこと、下宿をしながら郡上農林学校より陸士に合格した異色の秀才であった。

入校初めて食堂でパン食があった。一斤のパンがそのまま皿にデンとのり、あとシチューがついていた。前にいた山川が「これが食パンというものか?」と。そしてまず白いところをえぐるように食べ、弁当箱のようにしてから焼いたところ食べていたのを思い出した。彼の生家はそんな田舎だったのだろう。しかし在校中は品行方正、学術優等、2年になり60期生が入校するや指導生徒を命ぜられ起居をともにして新入生の世話をした。小生と同じ歩兵科士官候補生として本科に進学した。まさに立志伝中の人だった。

しかし、運命は皮肉、卒業目前終戦を迎え、涙をのんでそれぞれ帰郷したが、心機一転、彼は岐阜農林専門学校に編入学、卒業後岐阜県の農林関係の教育畑を歴任し指導主事、技術教育センター初代所長、大垣農業高校・岐阜農林高校校長で退任、警察学校の参与を経て、閑静な関市で奥様と悠々自適の生活を送っていた。かつて、小生が郡上八幡の城を訪れた時のこと、入場券売り場に偶然、山川の教え子がいて、彼の話をしながら丁寧に城内を案内され、天守閣からかつての山川宅を教えてくれた。山川先生は郡上八幡の名士であった。

昨秋に入って几帳面な彼の残しておいた陸士時代の日記と、生前パソコンに悪戦苦闘しながらしたためた人生記録に基づいて次男の方(これも秀才)が編集された冊子「私の歩んだ道」が送られて来た。わずか3年足らずではあったが、その冊子は充実した青春時代の強烈な思い出、陸士時代が大部分であった。

49日も過ぎて先日、親孝行なご子息より丁重な名文のお手紙をいただいた。一部を紹介する。胸せまるものであった。

(前略)【子供のころお風呂でよく父から「士官学校では、お国のために私心を捨てて互いに切磋琢磨した。」ということを聞き、勇敢なる水兵、橘中佐、広瀬中佐、日本海海戦の歌、元寇、太平洋行進曲、空の神兵などの軍歌を歌うなど、自然に父から受けた訓育が、懐かしい思い出となっています。戦後生まれの私も、父の経験談を通じて知った「国のために厳しい訓育、教練に堪えられた士官候補生の生き様と、知育、徳育、体育の一体化した陸士の教育」によって結び付けられた心の絆の強さに心より敬服したものでした。・・・】(後略)

昨年12月22日、奥様の米寿のお祝いを共にし、翌日、「わが人生に悔いはなし」と眠るがごとく、希望―挫折―再生という90年の人生を閉じて、長男のいるあの世に旅立って行った。合掌

(市ケ谷一郎)