銀座一丁目新聞

追悼録(627)

野球は悲喜こもごも、波乱の物語である

手元にある「野球博覧」(編・大東京竹橋野球団・平成26年2月3日刊)を愛用している。野球に関して疑問があればすぐ見る。毎日オリオンズの初代監督湯浅禎夫さんについて調べたかったので本を開いた。53頁に「米子中学校時代から剛球投手で鳥取県野球草創期に名を残した。一時、満州の大連実業に入部したが大正11年明治大学に入学、外野手から本来の投手に抜擢されて数々の名勝負を演じ東都好球家を熱狂させた」とある。ところが私が2・26事件に関連して読んだ寺内大吉著『化城の昭和史』(毎日新聞刊)では事件で刑死した西田税(陸士34期)が「米子中学校時代、エース投手で、捕手は湯浅禎夫であったと記されており、湯浅を剛球投手とは書いてない。西田税は米子中学2年生で広島幼年学校に合格、軍人の道を進んだのでその後は野球をしていないが2年生の時、西田税が投手、捕手が3年生の湯浅禎夫であった。全国中等野球大会の第一回は大正4年8月18日から23日まで大阪の豊中球場で行われた。鳥取県予選で西田税の米子中学は当時、全盛を誇った鳥取中学と対戦、惜しくも敗退した。寺内大吉の書には湯浅は米子時代、全く無名で、卒業後2年間ほど大連実業団に在籍した。当時から外野手で明治へ入学したのも打棒を買われてレギュラー入りをしたものだとある。さらに「西田がどんな球を投げたかは不明であるがあまりスピードはなかったらしく『捕手湯浅の返球の方が早かった』(末松太平「私の昭和史」)と伝えられている」としている。
とすれば湯浅が「米子中学時代から剛球投手で…」という記述は「野球博覧」の筆の走り過ぎではないか…湯浅が投手として活躍するのは明治大学に入学してからだ。明治の外野手の時、外野からの返球がホップするのを見たコーチスタッフが投手にしたというのが本当のような気がする。

湯浅は大正14年明大ハワイ遠征に加わり、帰国船でアメリカ遠征からの大毎(大阪毎日新聞)野球団と乗り合わせる。明大の監督は大毎野球団から就任した岡田源三郎(野球殿堂入り)。船上で湯浅をはじめ6人の大毎入社が決まる。湯浅は大阪本社の運動部長もしている。運動部記者の時、甲子園の高校野球を取材『泣くな別所、選抜の花だ』(昭和16年選抜)など名文を残す。毎日新聞が出している「センバツ野球50年(別冊1億人の昭和史)によれば、昭和16年の第18回大会(3月22日から6日間)、準々決勝戦、滝川中学対岐阜商業の試合の出来事である(3月26日)。先行の滝川が8回まで1対0で岐阜に負けていた。滝川が9回表、一死後ランナーを1塁と2塁おいて打者が打った3塁ゴロを三塁手が一塁へ大暴投、2塁走者が還り同点。1塁走者も本塁の駆け込むも右翼手の絶好の好返球で憤死する。実は1塁走者は投手別所毅彦であった。本塁上で転倒、左の二の腕を骨折した。後続続かず延長戦に入る。それでも別所投手は左腕を布で巻いて2回と3分の1を投げる。左腕の反動を失い、下手投げしかできない。グラブの重みが負担になりグラブを捨てて、返球は捕手からゴロで受け投げ続ける。「夕やみ迫るマウンドの別所の、左腕の白布が場内を悲壮感で満たした」という。12回半ばから投手経験の一度もない選手に変わり15回裏、岐阜が得点、サヨナラ勝ちした。滝川中学の前田八郎監督は「別所が投げている間、バントで攻められたら終わりと思っていたが天下の岐阜商業は一度もやらない。それがうれしかった」と語った。フエアプレーが感動を呼ぶ。文武の達人西田税を友人に持ち、野球の織り成すドラマを名文で綴った湯浅禎夫さんは昭和33年1月5日死去した。享年55歳であった。湯浅がなぜ「野球殿堂入り」しないのかと「野球博覧」の筆者が慨嘆している。私も同感である。

(柳 路夫)