銀座一丁目新聞

安全地帯(531)

川井孝輔

柴又帝釈天

空に恵まれての江戸川散策後半は、目的の柴又帝釈天を目指した。前号に記した様に、堤防の桜は一掃されて居る。だが終点に近い柴又公園に、若干の桜が残されているのを認めた【1】。堤防の高さと同じ面に、公園の在るのも珍しいが、公園の中央部に屋根が見えたので確かめると【2】、なんと「寅さん記念館」に通じるエレベーターであった。下に降りると記念館内の広場に出る。青天井の中央広場は略正方形で、広場に出た途端「寅さん」人形【3】に迎えられた。床面には全国都道府県の特徴を現わす紋様が刻まれ【4】、奈良は大仏・大阪は通天閣が見られた。テレビその他で寅さん映画「男はつらいよ」を承知しては居たものの、48本もの「男はつらいよ」の筋書が張られて居る【5】のを見て、その多さには驚かされる。題名と筋書【6】を見ると、マドンナとして出演した、懐かしい女優さんの名前があるのに、主役の倍賞千恵子の載って居ないのが不思議だった。帰宅して家内に話したところ、寅さん・さくら兄妹は常時出演なので、作品ごとの出演者だけを載せたのだろうとの事。肝心の映画「男はつらいよ」は、確か観ていない筈なので、余計な心配をする方が可笑しなわけだ。それにしても寅さんが亡くなり、若かりし「さくら」さんも、齢すでに75才と知っては、当方が老いぼれるのも無理ないことだ。再び公園に出て、暫くは周囲の景観を堪能し、「懐かしの江戸川に名残を惜しんだものだった。


【1】

【2】

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【4】

【5】

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何回かお参りした帝釈天はすぐ隣と近いが、改めて京成柴又駅からのフルコースを辿ることにして、公園を降りる。降りたところに山本亭【7】が在った。初めて知る料亭だが、見た処なかなかの店構えなのだ。あとで知った事だが、庭園が外国にも知られる程に有名で、入場料を払えば鑑賞できたらしい。惜しいことをしたと、残念に思っている。江戸川沿いを北に進むと有名な料亭・川甚【8】が在る。子供の時分から、柴又と云えば帝釈さんと川甚が頭の中に有った。当時接待されたか,接待したのかは知らないが、父が時折川甚の折詰めを持ちかえって呉れたことがあり、それが何とも旨いのが頭にこびりついて居た。何れ大人になった時に、そこで食事をすることが憧れだったのである。大分昔になるが柏に移り住んだ頃、家族連れで念願を果たしはした。だがその川甚を今見ると、4階建てのビルに変身しているではないか。商売としては結構繁盛している様だが、昔の風情が全く失われているのには幻滅であった。料亭としては、山本亭の雰囲気が遥かに趣ある模様で、機会が有れば庭園の風情を愛でながら、一献傾けたいところだが。


【7】

【8】

参道を避けて並行する道を、柴又駅に向かう。金町からは単線一駅の柴又の街は、元々帝釈天で持っていた。だが、車寅次郎の出現で「男はつらいよ」の街に変貌している様だ。広くもない駅前広場の中央には、例のトランクをぶら下げた寅さんが、ぞうり履きの姿で立っている【9】。広場の北側、赤い提灯をさげた鳥居のような入り口【10】が、参道の起点である。その脇に渥美清寄進の常夜燈が有って、「男はつらいよ」の匂いが濃い。彼はすっかり柴又での有名人になって居る。都道307号を横断すると、両側は土産もの店が犇めいて賑わい、そのまま帝釈天へと直線に延びている【11】。折角だから、寅さん・さくら兄妹の舞台で一休みと思い尋ねた処、丁度その真ん前に来ていた【12】。「とらや」は明治20年柴又屋としての営業開始だとか、結構古い老舗である。草だんごが名物なので、コーヒーとセットで注文する。当然店内には寅さん関連が一面に貼られてある【13】が、目の前の部屋に、仏画の軸をずらり並べてあるのが珍しい【14】。舞台になったおかげで、建て替えた由だが、2階に通じる階段だけは、昔の儘に残して在るとの事だった。


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【13】

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帝釈天の山門は二天門【15】と称するが、増長天と広目天を左右に安置してあることからの命名らしい。屋根には唐破風と千鳥破風を付してある由、由来に相応しい構えである。境内の左角に鐘楼が在ったが、門をくぐった途端に正午の鐘が【16】聴こえた。重々しい響きが躰全体にしみわたり、何とも言えない。子供の頃は単に帝釈さんと覚えたが、通称は柴又帝釈天。正式名は経榮山題經寺だと云う【17】。1629年禪那院日忠・題經院日榮により開基された日蓮宗の寺院。ご朱印を貰って帝釈堂の裏に回る。予て彫刻が良いと聞かされていたので、それを確かるのが目的の一つなのだ。彫刻ギャラリーとして、ガラスで覆われて有り、なるほど素晴らしい。両横・裏に精密な彫刻10面がずらり並んで居る【18】。之は法華経に説かれた代表的説話を選び視覚化したもので、1922年から1934年にかけ、加藤寅之助ら10人の彫刻師が一面宛を分担制作したものだと言う。各々に説明の案内文が有ったので、二つを選んで載せてみた【19】~【22】。縁側の下もガラス張りにしてあり、豪壮な彫刻を鑑賞できる様にしてあった【23】【24】。


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廊下を辿ると「園渓邃」の額【25】が見えた。邃は「おくふかいの意味で、寺には相応しい命名だと思う。此処は大客殿の入り口であり、庭園を巡る回廊にもなって居る。客殿は右側に四部屋あって立派なものだ。【26】は横山大観筆「群猿遊戯図」とある。庭園も中々見応えがあって【27】【28】、途中に一服できる処があり、廊下に座り込んで日差しを受けながら風情を楽しむ姿も見られた。京都の平安神宮でも裏手に立派な庭園の在るのに驚いたが、規模が小さいものの、この「園渓邃」も又素晴らしいと思う。珍しく女房孝行の積りで、名物の「葛もちを手にして散策を終えたのだった。 以上 27,1,31


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