銀座一丁目新聞

安全地帯(529)

今川小路

『長い物には巻かれる』考

“長い物には巻かれろ”という諺がある。その意は「目上や勢力のある人には争うより従っている方が得である」(広辞苑)。最近読んだ磯田道史著「江戸の備忘録」(文春文庫)から標題の諺が頭に浮かんだ。『前近代の日本人にとっては「家」こそが一番わかりやすい組織化の原理になった。一致結束するのには家の一員にするのが一番。 そう考えた豊臣秀吉はさかんに「羽柴」姓を配った。徳川家康も秀吉政権下では羽柴武蔵大納言を名乗らされた。徳川家康は一時「羽柴家康」だったのである。 ひどいのは豊臣・徳川の政権交代期である。加賀藩前田家は豊臣と徳川の板挟みになり、同時期に、二代藩主の前田利長が「羽柴肥前守」、三代藩主の前田利常が「松平筑前守」と二つの姓を分担して名乗った。』 

徳川の天下の時は松平賜姓といって大大名は大抵「松平」を名乗らされたという。
前田家⇒松平加賀守   島津家⇒松平薩摩守   毛利家⇒松平長門守

『だから教科書に「加賀藩主・前田綱紀とあるのは本当はうそである。江戸時代の人は松平加賀守様」と呼んでいた。 ところが、幕末になって、徳川家が鳥羽伏見の戦いで敗れ、「朝敵」になると、みな現金なものである。前田・島津など全国の大名は一斉に戦国期の本姓に名前を戻した。』 
丸山真男・加藤周一対談「翻訳と日本の近代」(岩波新書)に丸山の語りがある。
『江戸時代の文献では「藩」という言葉は驚くほど少ない。和文や話し言葉でも「藩」といわずに「お家」「何々家の家臣」という。むしろ明治以後になって「藩」「藩」と言い出すのです。』 丸山説では幕藩体制は一種の連邦国家で、幕府の優越性は天領が藩の領土より圧倒的に大きいだけで、武家所法度も各大小名と将軍の間の主従関係であって、それ以外の武士は幕府と直接の関係がなかったという。

江戸中期、肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が「武士としての心得」を口述した“葉隠”の「お家」は、「幕府」ではなく「鍋島藩」であった。藩主は時の権力者との主従関係に腐心しているが、藩の武士階級は会津藩の如く朝敵と云われても「お家」の藩主にお仕えすることしか念頭になかった。

明治維新で、藩が消滅して、葉隠の「お家」だった「鍋島藩」が「大日本帝国」に読み替えられ「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一節が、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時に使われている。 敗戦後の日本の変り身も早かった。 政府は米国のご機嫌を窺い、民は「お家・日本」の再建に励んできた。 だが、残念なことに「お家」は今や死語に近い。昭和22年改正前の旧民法には「家督相続」があったが、現在の民法では,家の制度が廃止されたので,「家督相続」も廃止され,「遺産相続」という財産の相続のみになった。若い世代には「家督」という言葉は通じないであろう。

戦後の我国にとって「長い物」は米国であるが、昭和の時代、日本が「長い物」と自負した一時期があった。「日清・日露・日独(第一次世界大戦)」の三つの宣戦布告の詔勅は、「大日本帝国皇帝」名で発布されたが、「大東亜戦争」は「大日本帝国天皇」名であった。
外交文書では「天皇」の名称は語源の元祖・中国に遠慮していたとされる。 又、前3回の詔勅には「国際法遵守」が謳われていたが「大東亜戦争」にはその記述はない。

戦後「大日本帝国」の名称は消されたが、「天皇」の名称は幸いにして残った。戦勝国間で議論があったか堂かは寡聞にして知らない。
*(ウイキペディアより)公布された条約では、1935年12月21日の昭和10年条約第9号まで「大日本帝国皇帝陛下」と表記されていたが、翌年5月11日公布の昭和11年条約第3号から「大日本帝国天皇陛下」と表記されるようになった。

吾々市井の民はトランプのことは政治家に任せて、「お家・日本」の明るい話題にもっと眼を向けよう。祝祭日に皇居にむかう何万の人々、靖国の森に若い世代の人の波----。

終り