銀座一丁目新聞

茶説

前進座の「怒る富士」の偶感

 牧念人 悠々

前進座公演の「怒る富士」(原作・新田次郎・脚色・田島榮・演出・十島英明)を見る(2月6日・品川きゅりあん)。大震災と時の政権とのかかわり方、震災に難渋する庶民の姿がよく描かれている。今から310年前の宝永4年11月に富士山が爆発した。死者は記録されなかったが降砂が農民を悩まし多くの餓死者がでた。その量は須走村、1丈余。棚頭村、4尺4寸、大御神村、5尺、上野村、4尺3寸、上野神田、4尺1寸、中日向村、4尺5寸、用沢村、4尺5寸、藤曲村、3尺6寸、中島村、3尺6寸、生土村、3尺5寸、湯船村、3尺6寸、柳島村、3尺6寸、菅沼村、3尺5寸、吉久保村、3尺5寸、阿多野神田3尺6寸。1メートルから3メートルの降砂が積もったのだ。そこはまさに死の世界であった。

復興復旧は焦眉の急であった。被害地は小田原藩に属していた。藩主大久保忠増は老中でもあった。権勢を誇る柳沢吉保をこの機に乗じてその勢力をそぎおとそうとしていた。あえて自力復興を主張する。事態が悪くなってから幕府に任せる魂胆たんであった。この動きを察知した柳沢一派は先手を打ち関東郡代伊那半左衛門に被災地の復興を命じる。同時に武士階級に百石について2両の復興税金を課す。48万両が集まったがその大部分が幕府の赤字補てんに回されたという。震災の復興資金はその使い方を監視せよと歴史は教えている。

この天災に命をもって農民たちを救うのに努力したのは関東郡代伊那半左衛門であった。被災地に赴任する前に大久保藩主によって相模国足柄上郡69ヵ村、同国足柄下郡45ヵ村、同国淘綾郡のうち1ヵ村、同国高座郡のうち3村、駿河国駿東郡59ヵ村が亡所にされてしまった。収益のない土地、税金が取れないから荒れ地として幕府に返上代わりの土地をいただく措置を取った。そこに住む住民は保護しない、どこかへ出ていってくれというわけである。それを請願してわずかなお米と復興資金を獲得したのが伊那半門左衛門であった。宝永5年、足柄平野を襲った台風で酒匂川が決壊。防災工事の責任を問われ復興担当を罷免される。それでも餓死する農民が絶えない農民の話を聞いて新井白石にもあい柳沢吉保に代わった真部越前守を動かす努力も惜しまない。正徳元年(1711年)、名主たちは直接幕府へ訴えでた。百姓煽動の廉で評定所に呼び出され糾弾される。伊那半左衛門は臆することなく老中・大久保加賀守、真部越前守らに御政道を説いた。その責任を取り正徳2年2月29日切腹した。この地が完全に復興すには36年間を要した。現在伊那神社は小山町須走下原にある。境内には宝永噴火時の焼け砂がそのまま残されているという。

「食するものは何もなく、鳥さえ去ってゆく…」この民の嘆きは、現在、地震・台風の災害にあう地域住民とそう変わらない。相馬市では震災から1年以上の間、野鳥の数が激減したという。「避難先すする雑炊屑菜も入る」(大阪君江)とその暮らしを詠む。天変地異を巡る自然と人間と政治の在り方はいつの時代も似たり寄ったりである。どん底に陥った時、それぞれに人間の品性がはっきりと出る。人間には時には死を賭して遂行せねばならない仕事があるということだ。