銀座一丁目新聞

追悼録(622)

操縦訓練中殉職した同期生日野宣也君を偲ぶ

友人上原尚作君の今年の定期便ハガキ第1号は満州で飛行機の操縦訓練中殉職した同期生日野宣也君との思い出が書いてあった。はがきに「昭和20年7月24日朝。空高100m。その雲の中の編隊同士の衝突事故。宣也君はそれで殉職。終戦3週間前の悲劇でした」とあった。

陸士59期生で航空兵科に進んだ同期生たちは米軍の空襲の激しい内地では操縦の訓練は難しいと昭和20年3月末満州にわたり、各地の飛行場に分散、操縦の訓練に励んだ。資料によると、操縦訓練は5月18日ごろからユングマンで始まった。8月9日のソ連軍の満州侵攻までに総飛行時間は40時間。科目は基本空中操作(水平直線、上昇降下、上昇旋回,降下旋回)、場周離着陸、単独飛行は速い者で6時間半、平均で9時間半であった。全員が単独飛行を終えた6月下旬に約20%の者が淘汰(操縦不適性と判断され偵察・通信への転科)され、7月7日に海浪に新設された第28中隊へ移った。その後、半数が一般班、半数が速成班に分けられた。両班とも同時にユングマンによる特殊飛行訓練に入った。急旋回、上昇反転、緩横転、失速,錐揉みなどの科目を一応終え速成班は99高練に移行して場周離着陸に入り、一般班はユングマンによる編隊飛行、幌をかぶって三角航法コースを廻る計器飛行をする。2,3日のうちには高練の単独飛行に出ようかと言う8月9日、ソ連軍が侵入してきたと記されている。

上原君のはがきの文面には「日野宣也君 今更、編隊長機が、どうのこうのと言っても始まらない。安らかに眠れよ.もう直ぐ、俺もそっちへゆくからな」。とあり、その左側に胸に航空記章をつけた日野君の顔写真(当時階級は軍曹)があった。上原君は日野君とは昭和19年3月予科を卒業して航空士官学校で同じ区隊になった。同じ区隊の清水昌三君、別所末一君ら4人とカラタチの歌など歌って楽しんだそうだ。上原宅と日野家とは洗足で50メートルしか離れておらず修武台(航空士官学校)からの外出時はいつも一緒であったという。両親たちも一緒に昼食をともにした。渡満の際,伏木港で別々に乗船したのが最後の別れとなったとある。

59期生史『望台』によると事故の模様は次のようである。訓練科目「編隊飛行」。訓練機4機。当時満州は気象状況が不安定であったので訓練は早朝か夕刻の気流の安定しているときに行っていた。時刻は午前6時5分頃、高度70メートル位のところで黒い雲の中に突入。そこで2号機(山本五郎少尉、日野宣也候補生)と4号機(村木三義少尉、竹内清候補生)が衝突、殉職した。「一瞬のうちに尊い4名の命が失われてしまった。先刻まで話していた同期生が、昨日までいろいろ教えを受けていた教官が。思えば全く無情な出来事であり、非情な出来事であった」と青山一生君は思い出を綴っている。

日野君、竹内君を含めて13人の同期生が靖国神社に祭られている。合掌。

(柳 路夫)