銀座一丁目新聞

茶説

世の中の危機・生活の文法が崩れつつある

 牧念人 悠々

「生涯ジャーナリスト」を目指すものとして新聞の将来が心配である。世界が動乱に巻き込まれる中、新聞の存在が必要な時なればこそである。新聞読者の減少はとどまるまるところを知らない。新聞社の統合の噂さえ出ている。私は生きる道はあると思っている。それは新聞がこの世になくてはならい存在だからである。ノーベル文学賞を受賞(1907)したイギリスの作家・ジョセフ・ラドヤード・キャブリング(Joseph Rudyrd Kipling・1865-1936)の詩に次のようなものがある。

「I keep six honest serving-men;They taught me all I knew;
Their names are What and Why and When and How and Where and Who!」

(訳・私は6人の正直な召使いを持っている。彼らはいつも私が知りたいと思っていることを教えてくれる。彼らの名前は「何を」「なぜ」「いつ」「どうして」「どこで」そうして「だれ」という人たちである)

これは新聞記事に必要な「5W+1H」である。事実を伝え、確認するうえで必要な原則である。いわばニュースの文法である。朝日新聞の扇谷正造さんは「これはニュースの文法どころか生活の文法ではないか」と喝破する(その著書「現代ビジネス金言集」(PHP研究所刊・1979年1月31日発行)。スポニチ時代、いまの時代にはさらにこれに「LOVE」の「L」が欲しいと唱えたことがある。記事に温かさを増すためである。汚い言葉を避ける意味もある。 若者の新聞離れがひどいと聞いて「若者の生活の文法が崩れかかっている」と感じた。このままいけば若者は事実を知らず、事実を確認することなくすべての情報を鵜呑みするようになる。由々しき時代である。

暮れに友人の堤哲君からメールが来た(12月14日)。『本日、元代議士のパーティーがホテルニューオータニであり、最初に発起人を代表して挨拶した300人ほどの従業員がいる会社経営者(高校の同窓会の役員)。「入社試験に応募のあった510人余で新聞を購読している人はたった6人でした」購読率1・1%。』

購読率1・1%か。ともかく新聞社を受験してくる若者の中には受験する新聞社の新聞すら読まないものが少なくない。せめて半年ぐらいは受験する新聞を購読するのが礼儀というものであろう。若者の新聞離れは年々ひどくなる。はっきり言えるのは本、新聞を読んでいる者とそうでないものの常識・発想力・判断力・着眼点・把握力などすべてにおいて差が2,3年ではっきり出てくるということだ。これからの世は新聞だけでなく本もよく読んだものがのさばってくる。頭角を現すものが1・1%ということであろう。

さて、これから新聞はどうなるのか。部数は減るであろうがなくなることはないであろう。新聞の持つ機能、役割と言っても良い「報道」「解説」「評論」はこの民主主義を支えるのに必要であるからである。とすれば新聞界も力のあるところが生き残り、体力のない新聞は他に吸収されるか消滅するほかない。この世にはスキャンダル暴露、キャンペーン、特ダネなどネットでは果たせない分野がある。「大衆が興奮した時、その興奮を捉えよ」「いかなる高価な代価をはらうとも大衆をとらえよ」という新聞哲学は今なお生きている。今の体制のままでは十分に新聞力を発揮できない。事業を拡大するほかない。これまでの新聞社が主催する事業の枠をはみ出て大きな、時には想定外の事業を展開する必要がある。そのいう時代に突入している。読者は新聞にもっと「LOVE」を持ってほしいものだ。