銀座一丁目新聞

花ある風景(618)

並木 徹

「1月1日」の歌と「君が代」考

小学生の時に元旦にはみんなで「1月1日」の歌を歌った。

年の始めの 例とて
終わりなき世の めでたさを
松竹たてて 門ごとに
祝う今日こそ たのしけれ

作詩は千家尊福(1845-1918)。出雲大社の宮司で司法大臣も務めている。1893年8月官報で文部省唱歌として公示。作曲は上真行。宮内省楽長。「鉄道唱歌」も作曲。「1月1日」はいまは殆ど歌われなくなったがいい歌だ。自宅には門松もたてなくなったが正月が来ると私は必ず口ずさむ。年の初めのけじめの歌だ。雑煮とともに…。年とともに餅の数は減った。。午後、府中の大国魂神社に初詣に行くのが毎年の習わしである。

最近「君が代」発祥の地が横浜の「妙香寺」と知った。その碑もある。明治2年(1869)薩摩藩士30名が「洋楽練習生」としてこの寺でイギリス軍第十連隊第一大隊長の楽長ジョン・ウィリアム・フェントンから演奏の指導を受けたことに由来する。フェントが日本にも国歌が必要と作曲した。詩は 薩摩琵琶の古曲「蓬来山」からのものといわれている。その中に「千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで 」という歌詞がある。もちろんこの歌詞は「古今和歌集」(第七巻・賀歌343・詠み人知らず)が原典である。明治3年9月深川越中島で薩長土肥四藩の操練に臨席された明治天皇に初演奏された。演奏したのはもちろん薩摩藩の軍楽隊であった。

この時、作曲された「君が代」は日本の国民性にあわなかったのかあまり歌われなかった。そこで、薩摩藩軍楽隊の隊員の一人であった中村祐庸が初代海軍軍楽長の明治9年に国歌の制定を進言する。この提案が受け入れられ、宮内省楽師・林広守作曲の新曲が出来た。これが現在歌われているものである。明治11年11月3日宮内省式部寮の委員によって明治天皇の前で初演奏された。明治天皇は初演奏の「君が代」を二度聞かれたわけである。

私が「君が代」を聞いて最も感動したのは昭和43年10月20日メキシコで開かれたオリンッピクのマラソンで君原健二選手が銀メダルを取った時である。メーンスタジアムに日の丸の掲揚とともに流された「君が代」の演奏は涙なくしては聞けなかった。時に君原選手27歳、身長167センチ、体重57キロ、”根性の男”と言われた。筆者43歳。「鬼軍曹」と言われた。異国で聞く「君が代」は心に響いた。それから50年。再び感動して聞く「君が代」はいつの日か…