追悼録(617)
没後100年の文豪夏目漱石の絵ハガキから知ったこと
夏目漱石は大正5年(1916年)12月9日にこの世を去った(享年50歳)。今年は没後100年である。朝日新聞に連載中であった『明暗』は第188回(大正5年12月14日まで掲載)で中断となった。加藤周一はこの『明暗』をその著書「加藤周一自選集(1)1937-1954」(鷲巣力編・岩波書店)で「『明暗』の作者は、明治大正の文学史における無双の心理学小説家である」と激賞する。夏目漱石の「漱石展―絵はがきの小宇宙」(9月24日―11月26日・日本近代文学館)の案内をいただき、見るつもりでいたがいつの間にか忘れてしまった。気が付いてみれば11月末日になっていた。
実は毎月、1,2回友人の上原尚作君からハガキをいただく。その返事に広重の東海道53次の『三条大橋』の絵はがきを出したところハガキで返事が来た(11月18日付き)。「立派な広重の葉書。御返事有難く拝受、三条大橋の図とあり、小生、絵の右が鴨川の川上、左が川下と断じましたがそうすると、バックの山はどこなのか?で、思考停止状態であります。なにかご援助戴きたくお願いします」。すぐに返事を出した。「背景の山は比叡山と東山です。広重の東海道53次の最期の55枚目の絵です」。ハガキを出してから実は上原君が「思考停止状態」と言ってきたのは「嘘」で、山の名前は分かっていたのではないかと思った。葉書交換のシグナルではないかと推測した。11月25日付で返事が来た。「広重の版画、貴兄の説明により小生予想の地点の対岸(鴨川の向こう岸)から、東北方向を見た景色なることを理解しました」なるほど「絵はがきも勉強になる,面白い」と感じた。あらためて展覧会の案内のチラシを拝見した。展覧会編集委員十川信介さん(注・学習院大学名誉教授・『近代日本文学案内』岩波文庫著者)の解説が載っていた。その解説に私自身が他の文献から調べたことをつけ加えて漱石について書いてみたい。
日本で私製はがきが認可されたのは明治33年である(10月1日)。時に漱石は34歳。熊本第5高等学校の教授であった。この年の5月、文部省より英語研究のために満2年英国に留学を命ぜられ、9月に横浜から日本をたった。絵はがきは急速に発展。絵の主流は各地の名所・風俗の写真であった。日露戦争時代には戦勝記念や戦地からの異国の写真で賑わったという。三宅克己(1874-1954・享年80歳)や丸山晩霞(1867-1942・享年74歳)らの専門の水彩画家も出た。漱石は明治36年1月、英国より帰国する。5高をやめ一高と東京帝国大学の講師となる。この頃。五高の教え子橋口貢(東京帝国大学を出て外交官となる)その弟五葉(1880-1921・享年41歳)らと水彩画絵はがきを書く。東京美術学校在学中の五葉は「ホトトギス」のカットを書いて漱石に気に入れられていた。「吾輩は猫である」の上巻の装丁も引き受けている。のちに木版画も制作し「大正の歌麿」と言われた。漱石は風景、人物、想像した怪物などをよく描いたという。
五高時代の漱石の一面目をのぞかせる話を教え子木部守一(外交官・満鉄の子会社の役員)が語っている。木部の友人の一人が病気で卒業試験を受けることが出来ず落第すれば一年留年することになる。それは家庭の事情で許されない。ぜひ追試験を受けさせてやりたいのだがそのための条件である成績が少し足りない。そこを何とか大目に見てやっていただけないかと木部が漱石の自宅まで出かけて頼んだ。すると漱石先生は「落第というものはそんなに悪いものではない。人間の一生には1年ぐらい前後してもたいしたことはではない。僕も一念落第したことがある」と言われたが、それは自分のこせつかない、点数や及第に超然としたところを私に印象づけようとしたように受けとれましたという。木部守一はその後、先生は修養を積まれ大人物になられたのだろうともつけ加えている。
2代目の満鉄総裁(明治41年12月19日―大正2年12月18日)の中村是公は漱石とは一高時代同室の親友であった。是公の談話。「若いときから数学がよくでき英語もすこぶる堪能で頭も緻密であった。その頃から正しい事一点張りで理に合わぬことは少しも受け付けないという性質で友人からも尊敬されていた。大学を出たころ(注・明治26年・年齢27歳)鎌倉の円覚寺の住職から坊主になれと言われたこともあった。世の中におもねらない性格で今頃の文学者には珍しい。或時君の一番の会心の作は何かと聞いたらまだ何もないと笑っていた。意地張りで、親切で義理堅く、手軽に約束しない代わり一旦引き受けたら間違えぬという美点もあった」(大正5年11月10日・朝日新聞百年の記事に見る「追悼録」上より)。
「漱石忌ときおり辞書を引くくらし」河木信雄
「漱石忌パソコン叩く追悼録」悠々
(柳 路夫)