銀座一丁目新聞

茶説

友の輪は強く結ばれさらに発展する

 牧念人 悠々

同期生の集まりである「五輪の会」(11月14日。大船・中華料理店「千馬」)は今回で6回目を迎える。出席者もこれまでで最も多い28名となる。いつも大きな刺激を受ける。「来年いつ開くの」の質問も出たほどであった。佐藤九州男君がサイパンの慰霊の旅(10月1日―4日)に行ってきた。彼の一文をいただく。まずそれを紹介する。

「海の色は碧かった。紫色かと思うほど、底知れぬ青だった。崖下に打ち寄せる波は遠慮したように静かであった。バンザイクリフは私の脚下から東の方に100m程延びた岬、海面までは2~30mと意外と低く感じられた。ここで追い詰められた邦人婦女子が身を投げた。バンザイクリフからは一万人が、マッピ山頂からは1200人が、米兵の制止を聞くことなく次々と身を投げた。海は真っ赤に血で染まった。マッピ山からの崖は200mはあろうかと思われる垂直に切り立ったがけであった。投身する着物姿の女性は袖に石をつめ子供を背中にくくりつけ裾が開かぬように紐で縛り海の向こう遥か北の日本を拝み「お母さん」と叫びながら身を投げた。マッピ山頂からの投身は後ろ向きになって岩を蹴ったと聞いた。説明したのはガイドのフィリピン女性の日本語であった。

悲愁 絶ゆることなし マリアナの海
碧く青く 紫に近き 深き青さよ
今 命絶たんとして  北3000㎞の日本に叫ぶ
『お母さん!!』と
背の 泣き叫ぶ子を抑え 身を投ず
歳月 70余年 マリアナの海の碧き変わらず

サイパン島の日本軍守備隊は第43師団長斉藤義次中将(陸士24期)、中部太平洋艦隊司令長官南雲忠一中将(海兵36期)の率いる総兵力4万3千人であった。昭和19年6月11日米海軍第58機動師団部隊は空母から戦闘機と爆撃機により攻撃開始、6月15日には島南西チャランカノア付近に上陸(総兵力6万4千人)。まず島南部のアスリート飛行場を占領、次第に日本軍と邦人は北部に追いつめられマッピ山周辺に立て籠もることとなった。物量を誇る米軍から撃ち込まれる砲弾は,将に山容を変える激しいものであった。もろい岩肌は1~2mの大きな弾痕があちらこっちに大きなどす黑い孔を開けていた。住民は逃げ惑い山陰に隠れ、洞窟に逃げ込む状況となり、万策尽き、将軍たちは7月6日自決,翌7月7日には4000名の残存将兵はバンザイ突撃で玉砕、戦闘は終わった。

サイパン戦の犠牲者数。日本兵・在留邦人55000人以上。アメリカ兵3500人以上、チャモロ人900人以上」

会の初めに11月11日に亡くなった小田暁君と清水覚君に黙とうを捧げる。同期生の会では小田君は財務を担当、清水君は名簿を担当。我々同期生のために働いてくれた。初参加というので挨拶に立った星野利勝君が「3月に小児科の医者を辞めたが妻に開業50年間の感想を聞いたところ年をとっても小さな赤ん坊が抱けたことと言ったのには驚いたがその気持ちもよくわかった」と話した。私もなるほどと共感した。星野君の夫人は確か私と同じく子供の頃ハルピンで過ごしたと聞いた。医者の河部康男君が「センテナリアン(百寿者)の研究について」で語る。『センテナリアンに共通する心とは「老年的超越」「多幸感」を持っていることである。物事に拘泥しない広い心、感謝の心、自然に何事にもよい方に考える、ポジティープ思考‣感情を持つことである』私も数年前まではこのような「心・気持ち」を持っていた。なぜか昨今はその気持ちが消えつつある。河部君の話を聞いて大いに刺激を受ける。恒例の古屋康男君のハーモニカ演奏もあって会はもりあがった。まことに五輪の会はいい会だ。東京五輪が終わったら「センテナリアンの会」と改称すべきと思った。

最後に荒木盛雄君の俳句でしめくくる。

「卒寿らの軍歌メロディー冬うらら」
「小春日や九十路の翁の意気盛ん」