追悼録(615)
陸軍特攻隊「万朶隊」を偲ぶ
友人上原尚作君とのハガキのやり取りからはからずも陸軍特攻隊「万朶隊」に関する資料をいただいた(11月11日・高木俊朗著「陸軍特別攻撃隊」のコピー)。その前に来た葉書には昭和19年10月、出撃する「万朶隊」の隊員の写真が添えられていた。それには「先任下士官の指揮により『特攻』に出発しました。出発寸前と言われる写真には将校はおりません」とあった。これに対して私が疑問の手紙を出したので懇切丁寧に返事をくれたものであった。
「万朶隊」は昭和19年10月99式双軽爆撃機により鉾田教導飛行師団で編成された。内地より比島リパ飛行場に向かう。隊長・岩本益臣大尉(陸士53期)、園田芳巳中尉(陸士55期)、安藤浩中尉(陸士56期)、川島孝中尉(陸士56期)、田中逸夫曹長(26)、社本忍軍曹(25)、石渡俊行軍曹(20)、鵜沢邦夫軍曹(21)、久保昌昭軍曹(20)、近藤行雄伍長(22)、奥原英彦伍長(22)、佐々木友次伍長(21)以上操縦(社本軍曹、佐々木伍長を除いて操縦は10名戦死)。中川勝巳少尉(通信・重傷負う)、浜崎曹長(通信)、生田留夫曹長(通信・戦死)、花田伍長(通信)、整備班・村崎正則少尉(ルソン島の山中で戦死)他10名。
岩本大尉は飛行機を改装、起爆管3本を1本にして爆弾を投下できるようにし、敵戦闘機が来たら逃げろとも指導、全飛行場の位置図を配り「出撃しても爆弾を命中させて帰って来い」と胸の内を明かしたという。
鉾田の岩本大尉夫人和子さんは杉本五郎中佐(歩兵11連隊中隊長として支那事変に出征・戦死・陸士33期)の「大義」を読むと気が楽になると日記に書き残している。
昭和19年11月5日、岩本大尉ら4名の操縦将校に対してマニラの第4航空軍司令部で打ち合わせの命令、実は軍司令官・富永恭次中将(陸士25期)の「一杯飲もう」という誘い。その前夜、学者の父に持つ安藤中尉は自室で歴史書をひも解く。岩本大尉は一首歌を作る。「大君のみことかしこみ賎が身はなりゆくままにまかせこそすれ」
11月5日午前8時、岩本大尉機はリパ飛行場を出発する。園田中尉、安藤中尉、川島中尉、中川少尉が同乗、操縦は園田中尉。マニラのニルソン飛行場まで直線距離にして90キロ。飛行時間20分足らずであった。“不幸にも”と表現するが、この時4航軍からは「空は危険だから車で来るように」と注意されていた。車で行けばマニラまで3時間ぐらいかかる。岩本大尉は自分の飛行機にしたのだ。車が安全かと言えば当時ゲリラが出没して必ずしも安全とは言えなかった。「戦場は生と死がまさに紙一つの差」というほかない。不幸にもマニラ南方パイ湖上空でグラマンF6Fヘルキャット戦闘機2機に襲われ、中川少尉が重傷で助け出されたほかは岩本大尉ら4人が戦死した。中川少尉が助かったのは戦死した園田中尉が瀕死の瀬戸際で胴体着陸をしたおかげであった。園田中尉の同期生陸士55期の航空は595名。航空の戦没者は419名。特別攻撃隊に所属しあるいは体当たり攻撃を敢行した者13名に及ぶ。名曲「航空百日祭」が歌われるようになったのはこの期からだ。作曲も作詞も55期生だからである
11月11日第4航空軍から「レイテ湾の敵艦船に必殺攻撃を実施すべし」の命令を受け翌12日、「万朶隊」の下士官たちがそれぞれの飛行機に「上司の霊」を乗せて特攻に向かう。一番機田中曹長、岩本大尉の霊(霊位を記した紙片が入った箱)、生田曹長(通信)、中川中尉の霊(敵輸送船に体当たり),二番機久保曹長、園田中尉の霊(戦艦の舷側すれすれに突入撃墜)、三番機奥原伍長、安藤中尉の霊(エンジンの不調で引き返す)、四番機佐々木伍長、川島中尉の霊(爆撃失敗ミンダナオ島カガヤンに不時着陸)。
12月5日佐々木伍長は特攻「鉄心隊」とともに出撃、大型船を撃沈してカガヤン飛行場に帰還する。12月20日「万朶隊」鵜沢軍曹は「若桜隊」の特攻機とともに出撃。鵜沢軍曹未帰還となる。12月30日、万朶隊の整備班は撤退して第4航空軍の陸戦要員となる。
万朶隊の生存者は、「整備班」・村崎少尉、隊員10名.「通信」・浜崎曹長(安藤中尉機)・花田伍長(川島中期機)、「操縦」・佐々木伍長・社本軍曹(戦死者火葬の際、火傷を負う)。佐々木伍長は11月12日の「万朶隊」の特攻攻撃の際、敵戦艦に突入、戦死と発表された。故郷の北海道当別では軍神として勲章の伝達式も行われた。その後も特攻に出撃するもその都度帰還する。昭和20年1月24日、地区司令部に申告行くと、第4飛行師団参謀長・猿渡篤孝大佐(陸士35期)に「生きておったのか師団の面汚し」と罵られたという。佐々木伍長は合計9回出撃するもその都度帰還、その後マラリアを発症。発作を繰り返し、陸戦要員となり戦友とともに山中をさまよい、敗戦を迎える。佐々木伍長は岩本大尉の暗黙の教えを守った最も忠実な部下であったというほかない。終戦後、米軍の捕虜となり翌年、浦賀港に帰還する。国のために死ぬと分かっていて出撃する「特攻精神」は賛否あるにしても凄い。私は尊敬と敬意を表する。特攻が米国兵士の心胆を振るいあがらせたことは間違いない。
最期に西条八十の「戦友別杯の歌」を捧げる。
「君よ 別れを言うまいぞ
口にはすまい 生き死にを
遠い海往く ますらおが
なんで 涙を見せようぞ」
(柳 路夫)