銀座一丁目新聞

追悼録(614)

ひとりの同期生逝く

北海道恵庭に住む同期生野俣明君から「江別の平賀桂一君が亡くなった」と連絡があった(10月23日)。野俣君の話によれば、「平賀君が9月5日肺炎で亡くなった。クリスチャンであったのでキリスト教葬で行われた。息子さんが近くでお医者をしている」という。予科時代同じ中隊の同じ区隊であった。戦後、一度も会う機会がなかったが2014年まで毎年年賀状を交換していた。賀状はいつも「HAPPY NEW YEAR !」であった。2014年には奥さんの真佐子さんと一緒に写った平賀君の微笑んだ写真が印刷されていた。紅顔の美少年も好々爺然としていた。戦後、北大に学び、夕張炭鉱から札幌のホテルの役員を務めていたなど其の消息はおりおり同期生から伝えられていた。

平成18年10月、私たちの区隊有志5人で戦後60年を記して区隊史『平成留魂録』を出版した。その際、原稿を依頼したのだが僅か9人が応じただけであった。平賀君から原稿はこなかった。この区隊史には途中で航空に転科された福田潔区隊長への私たちの寄せ書きが掲載されている。平賀君の寄せ書きは『「重忠尚武」 御教訓を體して頑張ります 御健康を御祈します』とあった。丁寧な楷書であった。この字体から見ると、おおらかでこせこせせず真面目で事を実行する人柄であるのがよくわかる。因みに私は漢詩を記した。

「欣仰嵐赤松(嵐の赤松を喜び仰ぐ)
不撓清々爽(撓まず清々として爽やかなり)
別師似嵐男(別れる区隊長は嵐の男に似る)
如松大奮闘」(赤松の様に大奮闘せん)

「区隊史」の全文に戦後60年を迎えた私の気持ちを記した。「人生八十年、戦後60年が過ぎた。私たちは何か書き残したくなった。敗戦で私たちの生き方は激変する。進んで軍の学校を選んだ私たちの戦後は苦難の道であった。敗戦の混乱の中、復員、大学進学、就職へと日本再建のために懸命に努力をして生き抜いた・・・」。

彼についてよく覚えていることがある。予科時代、昭和18年8月2日から10日間、沼津静浦で遊泳演習があった。8日4キロ遠泳演習が行われた。金ヅチであった平賀君はこの日に備えて中隊の近くあったプールで練習を重ねてきた。私もその一人であった。当日私は1キロ付近でギブアップ、随伴の船に助け上げられた。平賀君は最後まで頑張り泳ぎ切った。この10日間、漕舟。上陸訓練、通信教育などもあって楽しいひと時を過ごした。同じ区隊の田中長君の日記には「八月八日(日)晴 遠泳 6時50分集合後海岸に至る。9時前隊列整然と海に入る.波なく絶好の日よりなり。目標千本浜一路直進 順調に4キロを泳破す」とある。

平賀君の兵科は通信兵、敗戦を長野県蓼科の農学校で迎える。西富士の演習地で迎えた歩兵科の私たちと違って最上の第二種軍服を着て玉音放送を聞いたという。この地から復員した。往時忘れがたく、ともに歌わん昔の歌を・・・

「習志野の原、草緑
我が馬飼わん,時はいつ
露営の夢や偲ばれん
月影冴ゆる森かげに
ああ愉快なる年月は
早くも茲に逝かんとす」(「仰げば巍巍たる」8番)

(柳 路夫)