安全地帯(518)
川井孝輔
シ-ボルト展を観る
「シーボルト展」を見る(佐倉市国立歴史民俗博物館・8月28日)。シーボルトと言えば、幕末時に伊能忠敬の地図を持ちだそうとして国外追放になった、所謂シーボルト事件の張本人、長崎のオランダ医師との認識しか持っていなかった。シーボルト没後150年を記念しての企画展で、2万人以上が訪れているとの案内である。当日意外や観客はまばらで、充実した見学のできた事は幸いであった。過日上野の都立美術館で見学した、伊藤若冲展の盛況ぶりに比して、余りにも落差の大きいのには驚く。同館の研究者たちが6年間に亘る調査結果を纏めたものだとのことで、特にシーボルトがヨーロッパで実際に行った日本展示に焦点を当て、死の直前にミュンヘンで開催した「最後の日本展示」を、ここ歴史民族博物館に「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」として展示したと聞けば、貴重な企画展だと言うべきで、其の労を多とすべきであろう。
先ず、彼はドイツ人であった。医師の長男として1796年にバイエルンのヴユルツブルグに生まれ、本人も医学を志したが、自然科学に興味があったらしい。敢えてオランダ陸軍に応募し、軍医少佐として勤務した。東インド総督の命を受け、長崎出島のオランダ商館付医官として、27才の1823年に来日した。任務は医療の他に、日蘭貿易の為の自然科学調査が与えられていたが、5年に及ぶ出島での勤務は彼にとって、其の進路を決めるものになった。彼は、外国人としては初めて日本に鳴滝塾を開き、近代西洋医学や自然科学の育成に努めた。一方、日本の自然や文化に魅了された彼は、商館長の江戸参府の機会を最大限に利用し、画家を同行して膨大な観察調査を敢行したのだった。これは個人的以上に、オランダ領東インド政庁が、日本に対して強い関心を持っていたことが挙げられよう。ともあれ、潤沢な資金を得たであろうシーボルトは、鎖国下の当時にあっては稀有とも言える広範囲、かつ大胆な踏査を可能にしたのだった。
シーボルトは帰国後直ちに膨大な収集資料を基に、日本の自然・社会文化に関する著作を開始し、著名な「日本」を刊行した。日本とヨーロッパの文化、および自己観察による日本と隣国、保護国「蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島に関する記録集」との副題がついている。ヨーロッパに於ける日本研究の礎になる、記念碑的書物になった。更にシーボルトの「日本植物誌」・「日本動物誌」が関係者の協力により刊行されている。
1828年日本から追放されたシーボルトは、1830年にオランダ・ライデンで初めての日本展を開催し、収集品を紹介した。1858年日蘭通商条約の締結により、追放処分が解かれるや、翌年にはオランダ商事会社顧問として、長男のアレクサンダー・フォン・シーボルトを同行して再来日している。そして未完の著作を完成させるべく,調査・収集を再開した。一時幕府の外交顧問として登用され、日欧外交にも関与したが、これは成果を上げられずに解雇され、失意のうちに長男を残して帰国する。然し、この第2次コレクションは、江戸に滞在して恵まれた環境だったので、品質も高く膨大な量にのぼった。帰国した翌年の1863年には、オランダのアムステルダムで早速「日本資料展覧会」を開催しているが、彼自身「江戸に於ける私の状況や立場は勿論、今や科学的進歩の最前線で活躍する友人・門下生たちの助力もあって、この日本博物館のような収集が実現できたのである」と語っている。その後ドイツのヴュルツブルグとミュンヘンとで夫々展示している。今回のシーボルト展は、再来日した折に収集し、ミュンヘン五大陸博物館が所蔵する、膨大な資料の中から約300 点を選び、シーボルトの日本博物館として、里帰りしたものである。日本に対する思いが消えることのなかったシーボルトは、母国で民族学博物館の設立を提案し、異国の文化を知ることは、その国に対し「尊敬と理解をもって振る舞える」と主張した由。彼の生誕200年には、彼の肖像画を載せた記念切手が、日独両国で同時発行されてもいる。
それにしても、あの鎖国時代に然も個人的に、よくもこれだけのものを集めたものと感嘆する。数もさることながら、日本人の我々が眼にしたことの無い珍品や、美術的にも高価なものと思えるものが、万遍無しに多岐にわたっているのには、感服せざるを得ない。尚蛇足乍ら、長崎の歴史文化博物館・市立博物館には夫々シーボルト・たき・いねに関する写真が保存展示されて居り、シーボルト記念館にはシーボルトが再来日の折に手渡したと言われる径11㎝程の小さな「シーボルト妻子像螺鈿合子」が展示されて在る由である。
- オランダ領東インド陸軍参謀本部名誉少将に任命された当時のシーボルト。
- 事件になり没収されたと考えられる、「カナ書き伊能特別小図」(樺太部分)。現在国立国会図書館所蔵になって居るが、実はシーボルトは之等を密かに書き写して、持ち帰っていたのが判明した由。
- シーボルトが長崎滞在中実質的な妻女であった「たき」。オランダ人画家の写生画と言う。
- シーボルト再来日(1859~1962)の際には長男を同行し、帰国に当たっては資料収集継続の為、イギリス公使館の通訳として残留させている。
- シーボルトは「たき」との間に娘「楠本いね」をもうけた。彼女は日本人女性では始めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。村田蔵六(大村益次郎)からオランダ語を学び、彼が襲撃された際には看護に携わり、その最期を看取ったと言われる。
- シーボルトに植物学を学び彼の標本作成に協力した、伊藤圭介像。東京大学教授となり、日本の近代的植物学の創始者となる。
- 幕府普請役として、蝦夷地探検に情熱を注いだが、縁あってシーボルトの良き協力者になる。シーボルトは彼からアイヌに関する資料を得た。川原慶賀が写生したとの記述のある最上徳内像。