銀座一丁目新聞

茶説

激動期江戸の庶民はどのように過ごしたか

 牧念人 悠々

井上ひさし原作・前進座創立85周年記念公演「たいこどんどん」を見る(10月17日・東京日本橋三越劇場)。幕末から明治維新、この激動期を江戸日本橋の大店の若旦那と吉原のたいこもちが品川から漂流し釜石、盛岡と東北北陸と転々と流されてゆく…若旦那とたいこもちに託した庶民の生きようを示すお芝居と受け取った。

時は安政6年(1859年)。安政の大獄・下田、横浜、長崎、函館開港。江戸の人口は100万。「宵越しの金を持たぬ」という江戸っ子。「いき」と「通」を生きがいとする。人情の表と裏に通じ,遊里遊興に精通した。井上ひさしは作詞する。「張り強き新吉原 自堕落の辰巳芸者 乙味の品川女郎 塩味の船饅頭」。

物語は品川の花街から始まる。江戸時代東海道53次の第一の宿場。もっとも繁盛した。参勤交代の大名たちの多くもここから江戸入りしたので一層の賑わいを見せた。若旦那清之助(早瀬栄之丞)とたいこもち桃八(中嶋宏太郎)。二人ともきびきびして好感が持てた。女郎屋に来てみれば、なじみの女郎・袖ゖ浦(北沢知奈美)は薩摩の侍に呼ばれて姿を見せない。業を煮やした清之助が「薩摩のイモ侍」と罵ったことから騒動が持ち上がり、海に飛び込んで逃げる。運よく釜石行の廻船に拾われる。江戸と別れを告げる二人に葛飾北斎が描く富士が見える。北斎と言えば、「高橋の下から、遠く小さく見え富士」「浪裏富士」が有名。これからの漂流が長きにわたる苦労の旅であるのを暗示するかのよう。二人は釜石甲子屋に落ちつき、相変わらず芸者遊びをする。金は無一文。江戸の店に使いをやるがなしのつぶて。そのうち甲子屋おとき(北沢知奈美)と目明し喜平(松浦海之介)に奸計に引っ掛かり主人殺しの罪をかぶされる。罪を免れるため清之助は30両で桃八を釜石鉱山の鉱夫に売り飛ばす。そんな事とはつゆ知らず清之助が迎えに来てくれるのを指折り数えてひたすら待つ。仕事はつらい。これまでは口先で酒の席を盛り立ててきた仕事。力仕事は身に応える。休めば食事抜きである。1年目になった初めてこれまで尽くしてきた「清之助を鬼」と思うようになる。3年目、山火事のどさくさに紛れて脱走。遠野にたどり着く。落ち着いた亀屋(柳生啓介)で富本節の富本牛大夫に化けて稼ぐ。盛岡でこれまた著名な三味線弾きに化けた清之助と再会する。桃八とて恨みはあるけれど江戸忘れ難し。稼いだお金を懐に二人で江戸へ急ぐ。吉岡の園魔堂で雨宿りにきた二人の美女に騙されて雷峠を根城にする山賊に有り金を巻き上げられてしまう。どこまでも女性に優しい二人である。新潟、柏崎へと流れてゆく。哀調おびた佐渡おけさが流れる…。清之助は瘡かき、桃八も体はボロボロとなる。思わず「若旦那死にましょ…」と口走る。一日中、佐度を眺めていた清之助は柏崎で佐渡の砂金を手に入れる方法を思いつく。佐渡の金山帰りの鉱夫たちの草鞋を港で新品の草鞋と取り換え古い草鞋についている砂金を採取するのだ。これが見事成功、45両のお金を貯める。大金を懐に9年ぶりに江戸に帰ってみれば、若旦那の店が空地になっている。聞けば店の女将が5年歩前に亡くなってから店が傾きはじめ倒産したという。時に明治元年(1868年)。鳥羽伏見の戦い、江戸城の開城、江戸は東京と改称される。最後の桃八のセリフがいい。「今まで通りですよ。鼻から息を吸って、口から食べ物を流し込んで、両手を振って足であんよして生きてゆくに決まってさあな」。

歴史は庶民の頭上を通り越していつ場合でも知らぬ顔で変わってゆくものなのか…ちょっぴり若旦那のような知恵もいるような気がするが…