追悼録(613)
俳人・「特攻の花」・八牧美恵子さんを偲ぶ
俳人、特攻隊員の世話をし戦後その慰霊を欠かさなかった八牧美喜子さんが亡くなった。享年87歳であった(10月5日)。美喜子さんを教えてくれたのは同期生小林次男君であった。2012年の1月に開かれた湘南地区の同期生の新年宴会の席上、「嗚呼原町陸軍飛行場」(原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会・平成19年7月31日発刊)、句集「八牧美喜子集」、季刊「はららご」(秋冬号2011年・編集発行人八牧美喜子)をいただいた。美喜子さんについてはその前の年12月10日号「銀座一丁目新聞」の「追悼録」で美恵子さんの著書「いのち」を取り上げたのでその存在は知っていた。毎日新聞は社会面の囲み記事で「特攻隊員の花逝く・戦没者の慰霊に尽力」とその死を報じた(10月13日)。その日のブログで次のように記した。
「涙もろくなりし夫に白芙蓉」(昭和46年作・八牧美喜子)
八牧さんは「原町陸軍航空隊跡に慰霊碑が建立された。夫はこの飛行場で訓練を受け、私は航空兵たちの遺筆を持ち続けていた。以後慰霊の仕事を続けている」と記す。 夫は通泰さん(陸士57期)。57期の航空士官学校卒業生は昭和19年3月から9月まで原町飛行場で訓練を受けた。多くの特攻要員の若者から親しまれた。この飛行場で操縦訓練を受けた若者たちが先の大戦の末期、特攻で戦場に赴き散華した。原町陣ヶ崎公園墓地に慰霊碑が建ち、初めての慰霊祭が行われたのは昭和46年8月15日であった(合祀者208柱)。
「フリージャを抱きゆたかな胸と見す」(昭和27年)。美喜子さんは姓を加藤から八牧に変える。
美喜子さんは俳句雑誌『はららご』(季刊)を主宰する。
「少女期戦争老いて震災浅利汁」
「放射線害知らぬ小鳥の木の実食ふ」
「秋の暮被災告ぐ人声低し」
八牧美喜子さんの「いのち」(白帝社刊・1996年8月15日発行)は戦時中、家族とともに特別攻撃隊の隊員達をお世話した日記を中心にしてまとめられている。彼女が14歳から16歳4月までに書き綴った記録。特攻隊員からの手紙も紹介されている。私の1期先輩の八牧通泰さん(予科22/5・航空)の夫人。日記には特攻で戦死した陸士57期生の名前が出てくる。桑原嶽著『市谷台に学んだ人々』(文教出版)によれば、「特攻に殉じた有志の武勲は千載の後まで語り継がれてゆかねばならない」として比島方面35名,沖縄方面48名、義烈空挺隊5名、南西方面1名、本土防空3名などの名前が列記してある。57期乙種学生は原町分校(福島県)1年の教育を受け20年春卒業の予定であったが特攻隊編成に備え繰り上げ卒業となった。原町飛行場で襲撃機種の訓練を受けた者は特攻に最適のパイロットであった。57期生の学生たちは八牧さんの宅だけでなく原町に我が家のようにたずねる家を持っていた。斉藤三郎少尉(昭和19年12月19日フイリッピンネグロス島マニラ間戦死)小川陸郎少尉(前記と同じ場所で戦死)小野寺甲子郎少尉(同じ)永田茂壽少尉(昭和19年12月10日比国レイテ島サンイシドロ付近レイテ湾上にて戦死)小山正少尉(昭和20年2月6日フイリッピン・シライ飛行場にて戦死)らの名前が出てくる。彼らが原町を去る時(昭和19年11月6日)、美喜子さんとお母さんは当時最高の御馳走「あんこ餅」を用意したという。木下栄壽少尉(陸士57期・昭和21年1月16日・朝鮮咸鏡南道咸興にて戦病死)は昭和20年3月58期生の教官として満州に赴任した。今でも歌われている『原町特攻の歌』を作詞した。『さらば元気でいておくれ/永の別れの明日となる/恋の原町あとにして/夢は爆音ああ消えてゆく』
八紘勤皇隊長の山本卓美中尉(陸士56期・昭和19年12月7日・オルモック湾にて特攻戦死)は原町での57期生の教官で、学生たちの尊敬を受けていた。特攻隊長拝命後、遺書は書かないが、最後まで日記を書くと母親に約束され、それを実行された。日記の抜粋が引用されてある。一緒に特攻死した少年飛行13期生全員が彼女の宅に遊びに来ていた。陸士57期の久木元延秀少尉(昭和19年12月30日フイリッピンミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)は『麦と兵隊』の踊りが隠し芸であった。原町で覚えたものであった。最後の帰省の時、近所の人たちの宴会の席上その隠し芸を披露したという。昭和49年、原町を始めて訪れたお母さんは「どこで覚えたのか、忘れられません」と話したそうだ。航空の58期生も原町での1ヶ月の訓練中、外出先は57期生たちがお世話になった魚本、松永牛乳店、古山瀬戸屋、丸通支店長大橋友成さん宅などに分散、手厚い接待を受けたという。
「生くかぎり秘む文古び鳥雲に」八牧美喜子
(柳 路夫)