銀座一丁目新聞

花ある風景(612)

並木 徹

水俣病を扱った演劇「静かな海へ」

演劇「静かな海へ」を見る(10月18日・東京新宿・紀伊国屋ホール)。公害水俣病の原因をチッソ工業の廃液と突き止めたチッソ水俣工場附属病院長細川一さん(役名星川一・永島敏行)が妻・美也子(斉藤とも子)娘・和子(藤沢志帆)を巻き込んで真相を明らかにしなかった苦悩を描く。水俣病公害は新聞としても迷走を続け公害報道の上で様々な教訓を与えた事件であった。公害学者宇井純さん(役名・涌井純で出演)は「新聞記者もせめて半年ぐらいは現地を見て物を言ってほしい」と注文を付けた。

「三界の火宅も秋ぞ霧の道」石牟礼道子
舞台は1962年(昭和37年)6月、チッソを辞め愛媛県大洲に戻り,細川さんが患者から頂いた「ヤマトタチバナ」の木をうえる庭仕事から始まる。細川さんも時代に翻弄された一生であった。

1927年(昭和2年)学校(東大医学部)卒業後も大学に残って研究をつづけ博士号を取る。1936年(昭和11年)、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮恩徳郡)にある阿吾地工場の附属病院長となる。その後、水俣工場附属病院長を経て陸軍少尉の軍医としてビルマに赴任。戦後、復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。時に46歳であった。

1954年(昭和29年)、細川は運動失調や言語障害などを伴う見たこともない症状の患者を診断する。同じ症状の患者が次々と入院してくる。1956年(昭和31年)5月1日、細川は水俣保健所に報告、「水俣病公式発見」の日となる。早速、市内の病院・医師会・保健所・市衛生課による『奇病対策委』を組織、わずか2ゖ月の内に、患者の発生状況、家族・生活環境、自然的条件などの疫学的な調査を完了して、この病気が伝染病でなく何らかの中毒症状であり、人間だけでなくネコや犬など魚を食べる動物に共通に現れる重大な事実をつかんだ。

水俣病が初めて新聞記事になったのは昭和31年7月1日である。「熊本日日」が1段11行で「水俣の奇病患者8名出た」と報じた。細川さんは1957年(昭和32)年にチッソ工場から出る工場廃液を猫に与える実験を開始。2年後の10月、猫400号実験で、水俣病の症状の発症を確認する。舞台での細川病院長の表情は納得と同時に悲しげであった。工場長(西沢栄一役・朝倉伸二)に報告すると、この結果を隠蔽するように指示される。熊本大学の医学部の研究班は昭和34年10月、水俣病の原因について「有機水銀説」を唱えた。工場側は外部の学者を動員して「有機水銀説」を否定しようと試みた。この論争で工場側を支持した学者は10人を超える。国の対応も企業側に肩を持つおかしいものであった。
実験が再開できるのは1960年(昭和35)年、細川は転任する西沢工場長に、廃液の検査をさせてくれなければ辞職する旨を伝え、やっと諒解を得て再び工場廃液を使った実験を再開する。 細川さんは研究の結果、1962年(昭和37年)、廃液中のメチル水銀が水俣病を発症させることを突き止めた。それでも会社は公表しなかった。細川さんは娘の和子に強くとがめられる。「人を殺すのと同じことではないですか」。戦前の男は万事に「滅私奉公」であった。水俣公害は和子の非難の正しさを示す。 再び細川さんに出番が来るのは1965年(昭和40年)の新潟における水俣病の発生である。昭和39年末から原因不明の奇病が、阿賀野川河口付近に散発した。たまたま新潟大学医学部に赴任準備のために訪れた椿忠雄教授が以前、診察したことのある水俣病患者との類似があるのに気がつた。お芝居では水俣公害を調べている東京大学工学部大学院生・涌井純さん(カシマジロー)が知らせる。細川さんは現地を訪れ、この病気が水俣病に間違いないことを確認する。1週間ほどの調査で阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が汚染源と判断する。細川さんはその足でチッソ本社に赴き今は常務となっている西沢元工場長と会い、かっての秘密実験の公表を訴えたが拒否される。企業というものは度し難い。
昭和45(1970)年、肺ガンのため東京がん研究病院に入院中に涌井さんに頼まれ水俣病裁判の証人として臨床尋問を受け、ここで隠蔽されていた「猫400号実験」について証言する。

その年10月13日、細川は水俣病裁判の結果を見ることなく69歳でこの世を去る。水俣病患者側の「勝訴」が宣言されるのは細川さんの死から3年後、昭和48年(1973年)3月20日であった。

庭にヤマトタチバナが実を着ける。母親は娘に「これはお父さんが丹精込めて育てたのよ」とつぶやく。そのタチバナの実は「現場にかくされた真実」そのものであった。その実は決して甘くない。真実はほろ苦いものかもしれない。昭和30年代の話である。今なお、権力は「臭いものには蓋する」という悪癖があるのを忘れてはなるまい。