追悼録(612)
アンジェイ・ワイダ監督を偲ぶ。
ポーランドの激動の歴史を描き続けた映画界の巨匠、アンジェイ・ワイダ監督が死去した(10月9日)。享年90歳であった。今年の8月31日、ワイダ監督と親交のある映画評論家大竹洋子さんから頂いた手紙には「アンジェイ・ワイダさんも(早生まれでので)来年3月で91歳です。今年6月のワイダさんの笑顔をお目に掛けます。結城にある『武勇』という酒造会社(女子大の友人が経営しています)のハッピをクラクフに行く人に届けてもらいました」と、ハッピを掲げた笑顔のワイダさんの写真が添えられていた。それから1ヶ月後の死の知らせであった。
私が見た最後の作品は2014年4月に岩波ホールで上映された「ワレサ連帯の男」であった。その時の感想(2014年3月1日号「花ある風景」)を書いている。ワレサは33年前の10月にノーベル平和賞を受賞している。今更のようにワイダ監督の巨匠ぶりがうかがえる。ワイダ監督を偲びつつ再録する
ワレサはポーランドのクヤヴィ・ポモージェ県リプノ郡ポポヴォという小さな村で生まれる。高校を卒業したのち、1967年グダニスク造船所(旧レーニン造船所)で電気技師となる。ワレサは電気技師という職業を誇りとしていた。映画でも「お前は政治家ではないか」と官憲から詰問されると「俺は電気工だ」強く主張する場面が出てくる。生まれながらにリーダー的性格の持ち主であった。学者先生が5時間かけて出す結論を5秒で出す。「それは自分でそう結論を出したからだ」といい、「勘が働く」ともいい切る。この激変の時代、リーダーに「勘」だけを求めるわけにはいかない。リーダーには何が必要か。作家城山三郎は1、常に生き生きしていること1、いつも在るべき姿を求めている1、人間卑しくないことの三つを上げる。なるほどワレサには十分にその資格がある。1970年12月12日、食料品値上げ問題が起きる。バルト海沿岸諸都市で労働者が抗議。鎮圧のため軍警察が発砲、死者41名負傷者1164名を出す騒ぎとなった。この時,ワレサは検挙され、公安当局に協力するという誓約書を書かされる。それでも労働者の自由を求めてレーニン造船所のストに参加して指導的役割を果たす。ワレサが多くの子供を抱え貧しい暮らしをしているのに苦難の道を選んでゆくのは「人間の自由を求める志」というほかない。さらにその先に「希望」が見えるからである。それは「狂気」であった。リーダー的性格はカリスマ性と政治的感性を加えてゆく。1980年9月17日独立自主管理労働組合「連帯」発足、委員長となる。このころポーランドはじめ東ヨーロッパの国々はソ連邦の傘下にあって検閲や思想統制令でに縛られていた。当時の政策を批判したため、1981年12月13日戒厳令により身柄を拘束される。共産党政権に協力を求められるが拒み続ける。1982年11月ブレジネフ書記長の死とともに解放されグダンスクの民衆に歓迎される。1983年10月、ノーベル平和賞を受賞する。出国が許されないので妻が代わりに授賞式に出席する。帰国した妻の税関の扱いがひどい。まる裸にして身体検査をする。今の中国はノーベル文学賞の受賞者差へ本人はもとより夫人まで出国させない。その後、ワレサは1990年の大統領選挙で当選し、次々と自由化・民営化を行っていく。再選をかけた1995年の大統領選では、クファシニェフスキに僅差で敗れた。ワレサが求めてやまないものは「人間の自由」である。それがいかに大切であるかを画面が訴える。「時に君たちは、自由のために闘わねばならない」のワレサの声が響く・・・。その声はアンジェイ・ワイダ監督の声と重なる。心からご冥福お祈りする。
(柳 路夫)