安全地帯(516)
川井孝輔
佐伯泰英の文庫本に嵌る(下)
「吉原裏同心」
家の事情で理不尽な結婚に苦しむ幼馴染の汀女を見かねて、三才年下乍ら密かに剣技を習得した主役の神守幹次郎が、手を携えて豊後岡藩から逐電した。追っ手を逃れて大阪・加賀・仙台・江戸と放浪を続ける。が、縁あって吉原に活路を見出す。吉原とは言わずもがな「君と寝やろか 五千石とろか なんの五千石 君と寝よ」のあの吉原である。元和3年(1617)幕府が開かれて間もないころ、遊廓として公許されていた。天明6年(1786)から翌年にかけてが、本シリーズの時代背景だが、神守夫婦は10 数年の逃亡を経て居る。吉原会所の頭取・七代目四郎兵衛に剣の腕を見込まれ「吉原裏同心」として活躍するのが本シリーズの大筋である。当時幕府には町奉行所なる今の警察制度が在って、ロンドンに比しても早くから治安・防犯の一切を取り仕切っていた。当然吉原もその管理下に在ったが、四周を掘で囲まれたこの不夜城は,三百数十年の歴史と広大な敷地を持つだけに、常に多彩な問題発生を見た。唯一の出入り口、大門の両側には面番所・会所を置いて廓内の治安と出入管理をしているが、面番所同心以下の小役人は、賄賂さえもらえれば・・・の類で、何とも頼りない。自治組織の会所が吉原独特の掟に従って治めている。特異な難題解決には、探索の他に実力も必要になるのだが、その力には限界があったのだ。そのような処への幹次郎の出現である。負けを知らぬ幹次郎の必殺剣は溜飲をさげる爽やかさで、初巻「流離」から早速に紙面に躍り出て痛快だ。裏同心と言われるのも、うべなるかなである。十数年に及ぶ逃亡生活から安穏な環境に、暖かくも穏やかな長屋生活を得た。与えられ職を忠実に果たす主役夫婦は仲睦まじく微笑ましいが、妻汀女の凛とした美貌と博学も見逃せない。幹次郎の男前に惚れる女性も多く、吉原の華・薄墨太夫もその独りとあってシリーズに色を添えて居る。二十三巻の「狐舞」まで来た。そろそろ終焉に近いと思えるのだが、時の老中松平定信に依る改革・奢侈禁止令の煽りを受けて、吉原も儘ならぬ苦境に在る。客足の遠のいた吉原を昔に戻す算段を模索する中、会所の頭取七代目四郎兵衛の幹次郎に対する期待は深まるばかりで、その活躍が見ものだ。「狐舞」の解説ではかの久米宏が{・・・・・ところで佐伯様、読者一同は、幹次郎に想いを寄せる薄墨太夫に、万感の思い入れをして居ります。太夫の想いも叶い、幹次郎と汀女の夫婦愛もさらに深まる絶妙の筆さばきを、是非よろしくお願いします}と述べて居る。愛読者は多いと思えるが、終結宣言が見えないので、此のシリーズも尚続編が出て、年配者を楽しませることだろう。
「密命」
宝永6年(1709)豊後相良藩二万石は小藩乍ら蔵書を誇り、オランダ船で運ばれて来た書籍200冊を購入して国許に運ぶ途中を襲われた。幕府が此の本の中に、禁制の切支丹本が混ざって居るとの嫌疑を持ったからである。藩主は信頼する金杉惣三郎にその解決を命じる。惣三郎は密かに研鑽に励んで、剣の奥義を窮めるほどの力を得て居たが、師の綾川辰信に諫められて居た。「お前の荒々しい斬撃は、戦場往来の時代ならば良とするも、今は合わぬ。本性を殺す事を覚え、受けの剣を身につけよ」と。諌言を肝に銘じ、特に目立つ存在では無かったが、藩主の密命を受けた惣三郎は、脱藩を装い江戸に出て使命を果たす事になる。吉宗誕生に関わる秘事と、将軍就任に当たっての紀州・尾張両家にまつわる葛藤の渦が大きく巻いて、相良藩もその渦中に引き込まれる恐れが出て来た。藩主の密命とは藩の安泰を図ることにあるのだが、大筋は吉宗に対する尾張藩の陰謀に対し、大岡越前守忠相と気脈を通じて立ち向かう、惣三郎親子の物語である。この間惣三郎に依る痛快な愛宕山での「弦月三十二人斬り」を初め、その娘お杏を助けた縁で、有力札差冠阿弥膳兵衛との付き合いや、江戸の華と言われる火消の・め組、並びに南町奉行所との協力等々の話題が華やかである。そして巻毎に出る騒動を、ものの見事に一刀両断する剣さばきは、胸のすく鮮やかさが有る。子供の清之助も早くから剣技を磨き、享保の剣術試合では吉宗より「宗忠」の名と、脇差を拝領する迄に成長した。而も全国への武者修行に出て、その名も知られるようになる。ここで父惣三郎は、獅子の子を谷に落す心積りからか、清之助に勝つ弟子を育てることに狂奔する。父子揃って間接的に吉宗に仕え、華やかな結末を迎えるかと思ったのが、第25巻での上覧剣術大試合が問題になる。父が育てた神保桂次郎が、清之助との決戦を前に、勝負を制したものの瀕死の状態になった為,尾張柳生派の柳生秀直を制した清之助が、大会の覇者として栄誉を受ける事になった。処が観戦していた吉宗が、清之助と父惣三郎との番外試合を命じたのである。峰打ちで負かされた惣三郎は姿を消す。最終巻では、尾張の陰謀に対する最後の止めが見られるのだが、惣三郎親子は夫々の目的を持って名古屋に潜入して行った。惣三郎は、単身尾張の御陰衆屋敷に忍び込み、頭目と相打ちで死ぬ一方、清之助はその手先を屋敷外でせん滅した。惣三郎は姿を消して以来、ついに家族と相見えることなく死に、「密命」は思わぬ形で終結する。清之助は吉宗より大目付の役を解かれ、「惣三郎は一命を賭して、そなたら家族を守り身罷った」と言われ、武術者として仕えるよう命じられた。終盤の惣三郎の不可解な行動が、吉宗の一言で氷解するものかどうか、他のシリーズとは異なる味わいを残したままの終了である。
「新・古着屋総兵衛」
幕府が創設され、徳川家康は江戸開城を果たした。仕官と碌を探す輩から、商売で一旗揚げる面々が街中を賑わしたが、然しその一方で、盗賊・夜盗の跋扈をも招き、治安は無きに等しい乱れようであった。家康は、闇に巣食う夜盗の中でも、一族を率いて最強果敢と思われる鳶沢成元を捕縛して密約を種に取引する。命を助ける代わりに、鳶沢一族以外の仲間・夜盗すべてを、10 日以内に根絶することであった。成元はそれをやり遂げ、富沢町に600坪の土地を拝領した。表に古着商大黒屋の看板を、裏の顔は徳川家に問題発生の折には、武家集団として家康を助ける約定である。成元から数えて9代目が亡くなった時、6代目が南蛮交易で残した血筋の今坂一族が現れ、救世主として10代目に就位する。鳶沢一族の大黒屋は海外交易を密かに行い、沖縄首里の池城一族と契りを結んでいたが、南蛮からの今坂一族を併せて一大勢力となった。而も今坂族は、大黒屋の帆船を遥かに凌ぐ今坂丸で来航し、大黒屋と組んでの訓練を重ね、交易船隊としての陣容を整えつつあった。一方西国薩摩藩は、抜け荷と密貿易を通じて隠然たる力を蓄えて居り、この大黒屋が目障りでならない。島津重豪は、三女寔子を近衛家の養女にして、将軍家斉に嫁がせた。幕府内での力を得た島津は、大黒屋へ密約の指令を発し得る影の存在を探る。大黒屋に対する島津の陰謀術策が、繰り拡げられるわけだ。独身で若き大黒屋の10代目勝臣は、公家出身の坊城家と骨董品売買仲間としての付き合いから、その娘桜子とねんごろになり、逆に京での島津の動きを探ることになる。このとき、本能寺の変で家康が逃げ延びたと云う、伊賀の加太越えを逆行するが、山中で柘植一族との交流を得る。鳶沢・池城・今坂の三族体制に、最終回ではさらに柘植一族が加わり、加えて勝臣・桜子の婚約も成って、盤石の大黒屋体制が出来上がる様相が見えて来た。第六巻「転び者」は此処で終了する。作者のあとがきでは、後どれほどの巻数になるか見当もつかない、気長に書く積りだと言っているが・・・・・。
あとがき
時代背景が幕末1800年前後のもので、それ程大昔のことではない。昔から時代小説には興味があったが、身近に感じられる地名・人物名が現れるので、特に佐伯文庫本には共通して親近感が持たれる。尚、別冊では江戸の時代背景の解説もあり、知識を新たにする思いがあって、うれしいことである。
最近の新聞に、「居眠り磐音江戸双紙」が51巻で完結し、売り上げ部数は2000万を超えるとあった。尚「鎌倉河岸捕物控」・25巻「秘剣」5巻他も出ている筈だから、優に200冊以上を此処18年程の間に書き上げて居り、本人が言う「職人作家」と云うに相応しい。累計5000万部以上を発行したとの記事もあるが、本当に凄いことだと思う。通じて主役の剣技はとびぬけて居り、勧善懲罰の切っ先は負けることが無い。しかも主役の家庭内は何れも頗る円満。付き合う住民の気立ての良さもあって、長屋での日常描写がほのぼのとして頗る良い。ともあれ、この一年程を佐伯の文庫本に嵌って仕舞った。尚未練は残るが、北方謙三の「水滸伝」に戻らないと怒られそうな気もする