銀座一丁目新聞

追悼録(611)

毎日オリオンズと黒崎貞次郎社会部長

雑誌「野球雲」N7(啓文社・平成28年9月30日発行)が特集した「毎日オリオンズ」の座談会(諸岡達一・池井優・横山健一の3氏)の中で黒崎貞次郎という懐かしい名を発見した。「若林忠志(投手)がこの当時、毎日新聞社会部長だった黒崎貞次郎と非常に仲が良かった」とか[土井垣(武・捕手)を本田親男社長に会わせた」という話が語られている。また堤哲君も「野球とともに歩んだ毎日新聞」の中でも「毎日オリオンズが阪神タイガースから主力選手を獲得するのは本田のイキのかかった社会部の後輩・黒崎貞次郎―小谷正一のコンピであった」と書いている。実は昭和23年毎日に入った時の社会部長が黒崎貞次郎さんであった(昭和23年5月1日就任)。1年6ヶ月社会部長を在任したが「下山事件」が起きた際に5人いるデスクの中から「冷静に物事を判断する、一本筋の通った男」とみて平正一デスクを担当に指名する。この眼識は的確であった。当時多くの新聞が下山国鉄総裁の死について他殺説を取る中、終始自殺説を報道した。当時の警視総監が辞任の際「下山事件は自殺だと思う」と明言して去った。黒崎部長の印象と言えば「ドプネズミに似た小男で、ズックの手提げカバンをぶらさげ靴をバタバタ引きずってドモリのくせに雄弁」(『夕刊新大阪』の足立巻一さんの表現)であった。野球と関係が深かったとは当時は全く知らなかった。

昭和24年11月1日、新設された事業本部長に就任する。プロ野球球団「毎日オリオンズ」を作るためであった。黒崎さんは昭和21年、大阪にできた夕刊紙「夕刊新大阪」の編集局長時代、小谷正一さんとともにプロ野球の「東西対抗」の選手選定の人気投票を行った縁で日本野球連盟の会長の鈴木竜二氏をはじめ各球団の代表と顔見知りであった。鈴木会長から「毎日もプロ野球を持ったら・・」と勧められていた。昭和23年12月22日、社長になったばかりの本田親男氏にこの話をしたら言下に「高校選抜、都市対抗とアマチュアの2大行事を主催しておればたくさんだ。プロはほかに任せておけ」と一蹴された。それが1年もたたないうちにプロ野球の話が具体化する。これは販売関係の切望によるものであった。毎日新聞に「毎日プロ球団創設」の社告が載ったのは昭和24年11月19日であった。「野球博覧」(編・大東京竹橋野球団。平成24年2月3日発行)を見ると、黒崎さんは社会部長時代から毎日プロ野球球団創設のために努力されているのがよくわかる。最後は毎日プロ野球球団代表にまでなって苦労する。本人自身も「代表というものは外見はなはだ派手に見えて、事実は悲惨無類なもので、苦労の絶え間がない」とこぼしている。

毎日球団誕生と同時に球団を持ちたいという企業も出てきて日本野球連盟はパシフィック連盟,南海、阪急、東急,大映、西鉄、近鉄、毎日7球団とセントラル連盟、巨人、阪神,中日、太陽(のち松竹と合併)、国鉄、広島、西日本、大洋の8球団に分れた。プロ野球が2リーグになることによってプロ野球は今日のような隆盛を見るようになった。黒崎貞次郎さんは昭和50年10月30日、ユゴースラビアを旅行中、ザクレブのポルニカ市民病院で肺炎のため死去、享年72歳であった。

先掲の「野球博覧」に諸岡達一君は『黒崎貞次郎を先頭に走った毎日新聞の一連の行動は紛れなしに「現代日本プロ野球隆盛」の礎であり、2リーグ・レギュラーシーズンと日本シリーズを最高峰と位置付けた功績は日本野球の嚆矢であった。このことについて「毎日新聞百年史」「130年史」は記述が少なく野球史におけるその意義を認めていないのが不思議である』と書いている。天に眠る黒崎さん以て瞑すべし。

(柳 路夫)