銀座一丁目新聞

安全地帯(514)

信濃 太郎

万葉集防人の歌に寄せて

雑誌『偕行』に毎号「万葉集一首」が紹介されている(陸士53期の項)。筆者は西宮正泰さん。8月号を取り上げる。原文―父母我 等能ヽ志利弊乃 母ヽ余具佐 母ヽ与伊弓痲勢 和我伎多流痲弓。「父母が 殿の後方(しりへ)の百代草 百代いでませ わがくるまで」。(巻20・4326) 佐野郡(さやぐん)の生玉部足国(いくたまべのたりくに)。大意―父母の住まいの後ろには百代草が生えているが、その名のように百歳まで長生きしてください。私が帰ってお目にかかれるまで。佐野郡は静岡県旧小笠郡。美しいリズム。純真な情の歌である。防人の歌と記してある。

毎号、西宮さんが解説する万葉の歌を愛読している。知らないことが多い。その都度、手元にある万葉集の文献で調べる。巻20に収められた防人の歌は84首(ほかに9首「昔歌」がある)。防人たちは天平勝宝7年(755年)2月、遠江・信濃以東の東国から筑紫に派遣された。100歳以上が6万5000人もいる現在、今から1261年前の子どもの方が親を思う気持ちが純粋であるような気がしてならない。

「百代草」は「草の名・未詳。ムカシヨモギ・菊・露草などの説あり」と『広辞苑』に出ている。『国分寺市の万葉植物』(国分寺市教育委員会編集・発行)によると「ももよぐさ」の異名のあるものを調べてみると、「きく」と「つゆぐさ」があるが、「きく」は平安朝初期の渡来であるし、「つゆくさ」は「つきくさ」として知られ、これは路傍の雑草である。万葉の「ももよぐさ」は生命の長いものをさしているもので、諸説があるがいまだあきらかでないという。

私は露草説をとりたい。路傍の雑草で良い。夏から秋にかけて早朝に花開き、午後にはしぼんでしまう花である。花言葉は「尊敬」である。両親を敬う気持ちを花に託して詠むには格好であると思える。

防人の歌は兵部省兵部少輔であった大伴家持があらかじめ国府に歌の提出を命じ、東国の各部領史からうけとったもの。この御蔭で1200年も前の農民の気持ちが私たちによくわかる。妻女の歌も6首含まれている。

「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹は清(さや)に見もかも」

右の一首は埼玉県上丁(階級)藤原部等母麻呂なり(巻20・4423)

「色深く夫なが衣は染めましを御坂賜(た)ばらばま清かに見む」

右の一首は妻物部刀自売(巻20・4424)

防人夫婦の問答歌である。愛情誠に細やかである。国庁で防人編成式が行われ、その後開かれた宴で歌われてものであろうと土橋寛著『万葉開眼』(下・NHKブックス)にはある。

大東亜戦争の際、戦場に万葉集をしのばせた軍人も少なくない。「ガダルカナル戦詩集」を出した吉田嘉七さんは万葉集上下2巻の文庫本を持っていった。ガ島で詠う。

「勝つまではきっと死なぬという兵の顔の日に日に痩するは寂し」。

沖縄で自決した32軍司令官牛島満中将(日本陸軍最後の大将となる・陸士20期)の辞世は

「秋待たで枯れゆく島の青草は皇国の春によみがへらなむ」であった。

『この「なむ」という動詞の未然形を受ける語法は、文法学者の説明によれば、終助詞と言って、祈り、それもあいてにむかってあからさまにいふ祈りではなく、ひそかに、ひとりごとのようにいふ祈りである。心細いだけに、その切実な感情はひときわ深いものがある。折口信夫はこの歌に感動した』と桶谷秀昭はその著「昭和精神史」戦後編(文春文庫)で明らかにしている。牛島中将は陸士20期、予科、本科の士官学校の校長を務めているが郷里鹿児島1中の配属将校も経験している異色の大将であった。「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。男女の仲もやわらげ、猛きもののふの心を慰むるは、うたなり」と言うではないか。万葉の時代から現代までやまとうたは脈々と受け継がれている。