銀座一丁目新聞

茶説

民主主義は常に危ぶなかしい側面を持つ

 牧念人 悠々

民主主義が危機にあると騒いでいる人がいる。その人は民主主義を満喫しているのだ。騒ぐだけその人を民主社会が許容している。 端的な例として安全保障関連法をめぐる論議がよく上げる。新聞は国民の多くが「議論は尽くされていない」と感じていたのに、安倍政権は選挙ですでに国民の信任を得ているとして、採決を強行したという。果たしてそうなのか、 政治は多数決で決まる。有権者が選んだ政権である。瑕疵はない。安保関連法に反対を唱え続けても良いが成立した法律には従わねばならない。もちろん少数意見も尊重すべきだ。少なくともそれぐらいの寛容さがいる。時に少数意見に未来があるからである。この少数意見の存在を、逆に多数意見を、社会の分断だとするのは民主主義を理解しない者である。

えてして民主義は衆愚主義と言われる。つまりすぐれた政策、痛みを伴う改革政策が否決されることが少なくないからである。企業を例にとってみるとわかりやしい。「よいアイデアは会議に掛けるな」と言われている。だから優秀なトップはすぐに実行する。「みんなが賛成するアイデアはつまらないアイデアである」。政治の世界では会議をしないわけにもいかないので多数派工作するか選挙で多数を取り実行する。世の中が複雑化しグローバル化すると、お互いの利害が衝突し、対立が激しくなる。民主主義世界では「寛容」という潤滑油が必要となる。それが独裁者を生まない文明の知恵であろう。

眼を外国に転ずる。欧州では、難民の大量流入で、格差が進み、福祉が劣化し、雇用が悪化して社会が揺さぶられている。ISのテロ多発が宗教間の憎悪をあおり、民主主義の基盤が揺らぎ始めているといわれる。極端な排外的な言動で知られる実業家トランプ氏が米国の大統領選で共和党候補となった背景でもある。英国のEU離脱もそうである。今の世界を分断と見るのは早計である。時代はいつも激動する。しばしば想定外の事が起きる。人々は右往左往する。喧々諤々論戦する。一見分断したようには見える。それが民主義社会の側面の一つである。安全保障に限らず原発、沖縄の基地問題などがいまだに解決していない。毎日新聞は社説でこんなことを書いている。「国の未来に多様な選択肢が提示され、公平・公正な意見集約が行われる社会。その結果としての政策決定に、幅広いコンセンサスが存在する社会。それが民主主義が機能する強い社会と呼べるものだ」

だとすれば沖縄の基地問題はどう解決するのか、「多様な選択肢が提示されうるのか」。沖縄の米軍基地を減らしてゆく道筋を立てうるとしても普天間基地の辺野古への移設は日米の国の約束であり、国防上必要な措置である。少なくとも政府はそう思っている。沖縄県民の気持ちは十分すぎるほどわかっているが、沖縄の利害と国防上の必要性を比較衡量すると政府に軍配を上げざるを得ない。辺野古の埋め立てにストップをかけた沖縄県の翁長武志知事の「決断」を福岡高裁那覇支部が「違法」と判断したのはその流れである(9月16日)。「公平・公正な意見の集約が行われる社会」。民主主義の世の中にあった立場が違えば公平は不公平となり、公正は不公正になってしまう。民主主義はときには衆愚・矛盾・利害の対立を常に内蔵する。だから多数決で物事を決めるのだ。それが有権者の知恵なのだ。だから「DEMOCRACY」という。”人民が治める政治“である。「民主主義を鍛え直す」など愚かなことを言うな。歴史が育ててゆくものである。主役は庶民である。誰が言ったか知らないが「政治は国民の教養の鏡である」という言葉は言い得て妙である。