追悼録(609)
57期柴田少尉はじめ特攻で戦死された勇士を偲ぶ
友人上原尚作君から定期便のハガキが届いた(9月7日)。今回は満州温春で操縦の指導を受けたK准尉の事が書かれてあった。私たちの同期生で航空士官学校へ進んだ1200名は昭和20年3月渡満、満州の各地の飛行場で操縦訓練中に敗戦を迎えた。
ハガキによると、『K准尉はシンガポール夜間爆撃の時、編隊長機は撃墜されK准尉も片発をやられ、編隊から脱落、単機辛うじて帰還した。歩兵出身の戦隊長はK准尉の帰還報告に対して「何故編隊長の御共(自爆)をしなかったのか。おめおめ帰ってくるとは何事か」厳しくなじられたという。K准尉は「敵は米、英軍だけでなく日本軍の中にも居る」ことを知ったといいます』。
この時代「死」を優先する考え方が強かった。操縦者を温存して敵を撃滅する方が理にかなっている。一人でも多くのパイロットを残すべきであった。
ハガキは続く。『陸軍最初の特攻隊「富嶽隊」の航法士として隊長機(注・西尾常三郎少佐=50期・戦死)に搭乗し、敵戦闘機に撃墜されて戦死した柴田少尉(57期・禎男)に最初、操縦を教えたのはK准尉であった。しかし柴田少尉には操縦適性なしとして判断して航法士に転進させた。戦後になってもそのことをひどく悩んでおられました。そのように気の優しいKさんでしたが数年前に、火事で亡くなりました。Kさんの本名は梶と言います』とあった。
K准尉については8月に頂いた上原君のハガキには少年飛行兵からのたたき上げベテラン。我々の隊長S少佐とは日支事変初期から重爆撃隊の本家「第60戦隊」(浜松)に属し、太平洋戦争まで生き残った奇跡的操縦士と書いてあった。
富嶽隊は浜松教導飛行師団(師団長川上清志少将・陸士30期・のち第3航空軍参謀長・昭和19年12月8日戦死・中将)で、重爆撃機の特攻隊として編成された。特攻機は四式重爆撃機『飛龍』。800キロ爆弾を2個装備された。陸軍特攻機の第一号として昭和19年11月13日、西尾少佐を編隊長として5機の特攻機がフイリッピンのマルコット飛行場から飛び立った。目標は「ルソン島東方海上の機動部隊」。これまで2回特攻に向かったが米機動部隊を発見できなかった。三回目の出撃であった。西尾隊長機は艦載機20機及び対空砲火のため6000m上空で撃墜されたという。西尾少佐、柴田少尉のほか同乗した無線士の米津芳太郎少尉(少尉候補24期)も戦死している。陸士57期の航空は1131名(昭和19年3月卒業)。この期は特攻そのものであった。比島方面戦死者35名、沖縄方面48名、義烈空挺隊5名、南西方面1名、本土防空3名を数える。なお比島作戦で陸軍航空特攻戦没者は251名(202機)。同じ期間の海軍特攻戦没者は410名である。米海軍作戦年誌によれば比島作戦間の航空特攻による艦船の損害は沈没14隻、損傷83隻である。茲に改めて特攻で戦死された陸海軍の英霊に心から敬意を表する。
(柳 路夫)