銀座一丁目新聞

追悼録(608)

「五輪の名花」チャスラフスカ死す

チェコスロバキアの女子体操選手・ベラ・チャスラフスカさんは「五輪の花」と言われた。無理もない。東京五輪の「女子体操」では個人総合・跳馬・平行棒・平均台の4種目で金メダルを、さらに6年後のメキシコ五輪でも個人総合‣床・平行棒・跳馬の4種目で金メダルをそれぞれ獲得した。時に22歳と26歳。当時の毎日新聞が伝える(昭和39年10月22日)。「ばねがあり、体もやわらかい強みを生かしソ連のベテラン勢がマネのできない大胆、奔放な演技構成で差をつけた。天分に驕らずチェコ体協に勤務のかたわら一日4,5時間の練習を欠かさなかった。ピアノの腕も確かな気立てのやさしいお嬢さんである」。そのチャスラフスカさんは8月30日、すい臓がんでこの世を去る。享年74歳であった。

ベラさんは1968年の夏「プラハの春」で民主化を支持、「二千語宣言」に署名をする。1989年、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わりを告げる。大統領補佐官にもなり、チェコオリンッピク協会長も務めた。当時スポニチは「目を世界に向けよ」と記者を諸外国に特派していた。その数100人を超えた。チェコに特派されたのは文化社会部の中森康友記者であった。チャスラフスカさんと親しい東京五輪の体操の選手池田敬子さん(東京五輪で個人総合6位、平均台6位)の手紙を持参、ベラさんにアッタク、見事成功した。それがベラさんの訃報が載った9月1日スポニチに掲載されたプラハのカレル橋を学生たちと歩くチャスラフスカさんの写真であった。この写真は1990年(平成2年)1月1日のスポニチの一面を飾ったもの。実はこの写真カレル橋で3度目に撮影したもので、2度も撮った写真は日没直前で映りがよくなかった。そこで「この一枚の写真にプラハの学生たちの未来への希望とそれを支援するベラさんの熱意を表現したい」と言ってベラさんに無理を言ったものであった。

平成2年2月27日ベラさんが来日した際、ハプニングが起きる。3月3日日本記者クラブでの記者会見の席上である。ベラさんが「中森さんには昨年暮れ取材を受けたが、素晴らしい民主化のドキュメントを記事にしてくれた。日本とチェコとの友好関係を結びつけた大きな要因の一つです」とほめあげた後「プラハ城を背景にした学生との写真を彼は3度目で納得した。その記者魂は凄い。何事も成し遂げるという日本人の好例です」とかったので会場は爆笑に包まれた。

チェコ日本友好協会の名誉会長を務めるベラさんは東日本大震災の翌年、被災地の中学生26名をプラハに招待。復興支援にも力を注いだ。人と人との結びつきは強い。新聞もその役割を担うのは良いことだ。

(柳 路夫)